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コラム

ニュータウンと人口動態シンクロニシティ

2017.01.13

ArchiFuture's Eye                  ノイズ 豊田啓介

正月休みに帰省した。
 
僕の実家は千葉の東京湾岸、JR京葉線沿いのいわゆる埋立て地のザ・ニュータウンにある。
2才になる前からそこで育った僕にとって、故郷の記憶とはこの全てが人工的な計画都市の直
線的な構成と、大人になり行動範囲が広がるにつれ安っぽさが目立つようになる浅薄な表層と、
国道14号線を挟んだ向こう側に残る神社や昔の漁師町の地勢や歴史の香りとの不思議な対比だ。
 
昭和40年代後半から一気に開発が進んだこうしたニュータウンでは、同程度の収入や教育環境
を持つ世帯が同時に大量に流入することで、域内の公立学校の生徒数が爆発して平均学力も軒
並みアップし、やがて子供世代がほぼ同時に大挙して独立し実家を離れ、絵に描いたような高
齢者純粋培養の街になり、公立学校は統廃合され、大規模マンションは改修で紛糾し、不動産
の価値は崩れ、今は一巡して新しい層の流入が始まりようやく多様な層の混在した自然な系の
形成が始まりつつある。つまり、不自然なシンクロニシティが徐々に崩れつつある。
 
同時に数万人が同じような選択条件を経て住み始めれば、同じような問題がとてつもない規模
でシンクロして起こることは目に見えている。でも、戦後日本という国家的スケールのシンク
ロニシティの中では、焦土から一斉によーいドンで始まった社会の立て直しに、将来を見据え
ていかに開発を適度にずらすか、などと言っている余裕はなかったことは容易に想像できる。
 
いわゆる戦後の高度成長期に開発されたニュータウンの高齢化問題はさまざまな場所で議論さ
れているから僕がここで取り上げることもないと思うが、これは実は企業にも起きていること
だ(僕はこれを勝手に「大企業のニュータウン問題」と名付けている)。今の日本の大企業と
いうのは、大抵が戦後の高度成長期に、大変な努力の結果世界的な成功を収めるという、大雑
把には類似した経過を同時期にたどってきた企業群で、その経営者達はそこでの独特の成功体
験やノウハウをかなりの割合で閉じた世界で共有している。で、これが大問題だ。
 
戦後の昭和期の日本企業の成功体験やその評価軸なんて、世界的、世界史的に見ればかなり特
殊な条件下のほんの部分的な特殊解に過ぎない。でも、今の日本の政経のトップ達は、その個
人の視点から見れば(不幸にも)十分に大きく偉大に見える共通理解の閉じたサークルの中で、
どっぷりと相互信頼を築いてしまった。そんな成功体験は、ちょっとゲームが変われば大して
役に立たないどころか、結構な確率ですぐに害悪にもなる。たかだか個人の一生程度のスケー
ルでのスキルセットが特殊シンクロ環境下で成功したからといって、非シンクロ状況下のこの
大きく変化する世界の一般解までを、語られ評価されて牛耳られてはおおいに迷惑というもの
だ。
 
最近はそんな昭和戦国期を生き抜いてきたと自任する大企業でさえもさすがにゲームチェンジ
の気配は感じているようで、なんかヤバそうだけど何したらいいかわからないどうしよう的な
相談をノイズで受けることも増えている(設計事務所なんだけど)。でも実際に話を聞き諸々
議論もした上で何か具体的な提案に至ったとしても、まあ95%は「理屈としてはその通りで
ほんと共感する。でも、うちの会社の現状では理想論の実装はなかなか難しいなあ。」となる
(か、結局は声だけで、実はお金と労力、微塵のリスクを負うつもりもそもそもなかったと
いうことの方が圧倒的に多い)。リスクなしに実装できないものは机上の空論というわけで、
まあうちみたいな事務所の提言なんてそんなものだ。
 
個人レベルでは大いに共感しても、結局は会社の体制が、経験の範囲が、上層部の判断がそれ
を許さないのだという。昭和の成功を共有してきた上層部(とその上意下達の連鎖により形成
されてきた価値観)という一枚岩はなかなかに手強くて、もうとっくに彼らの成功体験の旬は
過ぎていて、むしろ今ではほとんど腐りかけているというのに、この昭和の成功体験という実
はあまり実体のないものが、まだ中途半端に成功の衣をまとわせるだけに、変化の芽をことご
とく潰し、視野を狭め、本来新しい分野の成長に必要な養分をバケモノのように食い尽くして
いる。その社会的無駄がいかに大きいか、僕らはもういい加減に気づかないといけない、本当
に。このバケモノは、新しい環境での成功体験の紡ぎ方を自らの身をもって見ようとも、知ろ
うとも、せめてまだ若く新しいゲームを吸収できるチームに失敗をしてでも学ぶ機会を提供し
ようともしないまま、昭和の成功体験という守る価値も実態もない自らを、必死になって守っ
ている。いや、いろんな人を洗脳して、働きバチのように守らせている。最近いろいろな会社
の内部から見る機会を得るようになって、より一層そう思う。
 
くどいようだけれど、そういう人たちの好きそうな例で例えてみよう。群雄割拠の戦国期、鉄
砲の時代になったことに気付かずに騎馬隊で織田に突撃した武田の愚についてはまことしやか
に語るのに、自分ではジープに乗ってステルス戦闘機と対峙していることには気づかない、そ
んな状況だ。ステルスに撃たれて気づいた時には死んでいるから、彼らの成功体験は、彼らの
意識の中では死ぬまで有効であり続ける。自説が失効する時に死んでいる人は気楽だが、残さ
れる身としてはたまらない。
 
世界のゲームがあきらかにここ10年、新しい知見で動き始めている。そこを漕ぎ回る企業(社
会とは言っていない:社会には戦略と合理性以上のものがあると思うから)の知見が、あまり
にも、あの甘く偉大だった昭和の価値観にいまだ偏重していないか(もしくは大学も、メディ
アも、だ)。ひとたび立ち遅れた企業は、焦りと不安とからとりあえず同時代の「そこそこに」
成功している横の例を見て表面的に倣おうとする。しかし、そんななれ合いの連鎖は長期的に
は停滞と縮退しか生まない。今のゲームの本質は、同時代という既に形になっている表面をな
ぞるのではなく、ようやく見え始めた点を紡ぎ、まだ見ぬ数十年後の未来を見る・紡ぎ出す力
を養うことにある。実際のニュータウンなら高齢者への人口偏重がおきたとしても、人権的な
立場から何とかする必要もあるだろう。しかし「企業」という攻めと創造性とそのための技術
刷新とが求められる集団が、生産性という面で既に破綻している昭和のニュータウンをなぞっ
てどうするのか。
 
というわけで、あけましておめでとうございます。

豊田 啓介 氏

noiz パートナー /    gluon パートナー