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コラム

台北中央駅に思う私の原点と今

2017.03.07

ArchiFuture's Eye                慶應義塾大学 池田靖史

台湾の国際空港である桃園空港と台北市中心部にある台北中央駅の間を結ぶ空港高速鉄道であ
る桃園メトロが2017年3月ついに開通した。難工事ゆえにその構想から20年以上の歳月
がかかっており、何度も開業が延期されていたことから、待ちわびた台湾の人々の感慨はひと
しおだったに違いない。私自身がこの大きな計画の一部に関わる事になったのは2005年に
行われたこの新線の台北中央駅を既存の台北中央駅に接続して拡張しつつ、駅西側の操車場跡
地を総合的に再開発する国際コンペに、槇文彦先生の率いるチームの一員として参加する事に
なったことからであった。当時の私は既に槇先生の事務所から独立して10年が過ぎていたが、
大学時代の指導教員でもあった槇先生は「リニアモーターカー開業に合わせて汐留(当時は国
鉄の貨物ヤード)に東京の象徴的な玄関口となる都市空間をつくる」という私の卒業設計の
テーマを覚えていて、とてもよく似たケースのコンペがあるから協力しないか、というお話
だったと記憶している。その時点で卒業設計から20年経過していたわけだが、私にとっては
卒業設計賞を頂いたことで都市と建築の設計を一生の仕事にしていこうと心に決めた原点でも
あったので、都市的に重要な場所を国際的な玄関口にする壮大な計画に関われる事は身震いが
するほど嬉しく、コンペ案の採用が発表されたときには気が遠くなるほどであったことを今で
も覚えている。コンペ後わずか1年ほどで計画は地下のほとんどを占める空港高速線駅とその
上空の空間を活用して建てられる2棟の超高層建築の合体的構成による基本構想がまとめられ、
そこからは上下の建設主体が分解されることになった。台北の持つ歴史的な2つの都市軸に呼
応しながら、ゲート(門)の形を表現して、はるか遠方からもその存在が意識されるような象
徴的な超高層建築と地下25mで乗降する国際的旅客に都市の玄関口の明確な意識を持たせる
演出としての壮大なボイド空間の方針を示した槇先生は、その時点で駅部分の内装設計の責任
者として私を指名し、基本設計以降のデザインをまかせてくれた。とはいっても実施設計は台
湾の協力事務所JJPが中心にまとめたので私自身は監修者の立場であるが、それまでに考えた
事もない巨大な空間について細部と全体の関係を考え抜いた経験は、今考えると建築設計の仕
事の経験のなかでも特に濃密な時間だったし、国際的な協力の中で仕事をしていくという考え
を自分の核として持つようになった時期だったと思う。工事は8年以上かかり、その間はたま
に行って見守る事ぐらいしかできなかったとはいえ、結果的に自分の人生のありかたに決定的
な影響を与え続けて来た一連の出来事であったようにも思える。

今一度振り返ると、私の卒業設計と共通する都市の玄関口を地域と結びついた忘れ難い思い出
にするというテーマは、国際化する現代社会の中で長距離の移動体験が多くの人に同様の感慨
や思考の連帯をもたらす共通性の高い要因であるべきだと言う槇先生にしかできない見識ある
思想であった。大学生だった私がどこまでそれを理解できていたか心許なく、そのかわり、多
くの人が使う都市空間の全体的な構成と、その一人一人の視点に戻ったときの身体的な感覚の
間を行き来することの面白さと大事さが身に沁みた事は間違いない。現実の社会でもほとんど
あり得ない壮大な規模の計画を私の卒業設計に勧めてくれた槇先生は、スケールだけでなく次
元や時間さえを飛び越えてデザインを思考することを教えてくれたのだと、今になって気がつ
いた。

その後大学院に進み、それまでは趣味に過ぎなかったコンピューターを積極的に使うように
なったのも、当時自分では到底持てないパソコンを東大槇研究室に購入してくれた槇先生のお
かげで、まだパソコン向けのアプリケーションソフトウェアがほとんど存在しない時代なので、
BASICというプログラミン言語でモニター画面にTVゲームのようなピクセル画像を出す事く
らいしかできなかった。そんな利用価値が不明なものを、よくたった一人の大学院生のために
用意したと思う。おかげで家に帰らずに研究室に閉じこもり製図板とモニターに向かうように
なったが、それは建築の学生としては少し異端だったし、実務での使い道がはっきりしていな
かったので、当時はパソコンができても設計志望の学生の就職に有利な事は何もなかった。そ
んなときに槇先生の幕張メッセの仕事を大学院生の模型づくりアルバイトとして事務所にお手
伝いにいっていた。実際の建物でご存知のことと思うが、壮大なスケールの緩やかな円弧状の
構造体が立体トラスで構成され天井を貼らずに露出する事が決まったときに、事務所ではその
精密な模型を2週間かけて作成し写真を撮影し、それを下書きにして透視図を書く段取りを打
ち合わせていた。いま思えばでしゃばりな事に私はそれをプログラムで書かせる事を言い出し
てしまった。陰線消去できないただのワイヤーフレーム作成のプログラムが既にできていたの
と、円弧基準の立体トラスの中心線の結び方くらいならアルゴリズムがすぐに思いついたのだ
が、簡単にできると言ってもその場の誰にも信じてもらえなかったことが悔しくて大学に戻っ
て徹夜で仕上げた事は記憶にある。結局使ってもらえたのかどうかよく覚えていないが、ただ
円弧の半径でもスパンのトラス分割数でも視点の位置でもプログラム上の数値の入れ替えをす
れば、手書きの図面のように最初からやり直さなくて良いいこそが本質的だと体験的に理解で
きた。こうして、やっと少し建築デザインとコンピューターの接点を見いだせた私を事務所に
迎えてくれたのも槇先生だったのだから、それもお見通しだったのかもしれない。以来ずっと
建築や都市の計画の全般に深く関わる事と情報技術の可能性を追求する事の両方を手放さずに
その間に自分のバランスを見つけるような意識をいつの間にか形成してきたし、その視座のお
かげで本当に様々な事にアプローチする事ができた。

台北中央駅の設計にお誘いいただいたのはその10年後、そして今があることを思うと、自分
なりに思い切り飛び回ってみたつもりではあるのだが、本当にお釈迦様の手の中にいるような
感覚にさせられる。台北中央駅のインテリアデザインのときに私自身が一番打ち込んだのが計
画の公式発表に使うアニメーションとそのための3次元モデルの作成だった。テクスチャの生
成からライティング、カメラパスにいたるまで誰にも任せず自分のパソコンの上で全て行った。
大きな吹き抜け空間を地下25mに到着したプラットホームから、たくさんの乗客達がゆっく
りと上がってくるシーンをあのときに何度も繰り返して見ていた事が現実になって何か不思議
なような気持ちがする。アニメーションは、今見るとたいしたクオリティではないのだが、デ
ザインに関わる様々な事をモニターのシミュレーション上で仮想体験的に考える感覚と方法論
が明確になり、それもまた自分がデザイナーの一人として果たす役割として、多くの人と協働
する方法のモデルになった。

今回のコラムは台北中央駅の完成を機会に人生を私小説的に振り返ってしまったが、おそらく
他では書かない内容だと思う。30年たった今の私は、情報技術の追求だけでもなく、都市環
境や建築の構想力だけでもなく、その両方を俯瞰しながらグローバルな現代社会に少しでも貢
献できる新しい存在になりたいと願うようになった。そこまでには本当にたくさんの人々にお
世話になっているのだが、師匠である槇先生には誰よりも感謝している。

 グランドオープニングでにぎわう桃園メトロの台北中央駅 写真提供:鹿島大睦氏

 グランドオープニングでにぎわう桃園メトロの台北中央駅 写真提供:鹿島大睦氏


 2006年に作成した台北中央駅のCGイメージ

 2006年に作成した台北中央駅のCGイメージ

池田 靖史 氏

東京大学大学院 工学系研究科建築学専攻 特任教授 / 建築情報学会 会長