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コラム

BIM、CADの起源を語る前に

2017.09.14

パラメトリック・ボイス            インフォマティクス 長島雅則

この度、Archi Future 2017に講師の一人として参加させていただくことになり、大変、光栄
に存じます。
私の役目は、コンピュータが建築設計分野でどのように使われ始めたかをご報告することと、
その頃(約40年前)に想い描いた未来と現在を比べてどう思ているかについてお話すること
だと思います。もちろん、私の関わってきた範囲で述べさせていただきますので、ある意味、
その事象の一面に囚われている可能性は否めないと思います。しかしながら、このコンファレ
ンスで述べさせていただくことはその時代にしっかりと起こった事実であることに間違いな
いことです。
まずは、自己紹介を兼ねて私の生まれ育った時代背景から述べさせていただくのが適当であ
ると考えます。
 
私は第二次世界大戦後のベビーブームに生まれた団塊の世代に属します。我々の成長してき
た時代は敗戦直後の絶望の時代を克服して希望が芽生えてきた時期であり、ある意味、日
本の歴史の中でも幸運な時期ではないかと感じています。終戦直後の破壊し尽くされた所を復
興することは全ての人が望み力を惜しみなく注いだことでした。その中で象徴的な出来事は、
1964年に東京で開催されたオリンピクでしょう。オリンピク競技の施設はもちろんですが、
開催都市である東京はもちろん全国のインフラ整備も積極的に行われました。また、その後
の1970年に関西で開催された大阪万国博覧会も日本の建設産業の目覚ましい動きでした。
そのような環境下私は自然に建設業界に進む道を選んで行きました。70年代初頭には、
東京大学工学部建築学科の内田祥哉先生の研究室で卒業論文と修士論文をまとめました。
内田先生は日本建築学会賞(作品)を受賞されるデザインセンスのあふれる方ですが、構法
の研究でも素晴らしい業績を築かれていらっしゃるのは皆様、ご存知だと思います。プレハ
ブをはじめとするシステムズビルディングまた、モジュラーコーディネイションの研究など、
「何を建築設計するか」のみならず「建築をどのように作ったら良いか」を我々に考えさせ
てくださいました。

そのような研究室の環境の中で、研究結果の中の数値の関係を分析することもありました。そ
こで、相関係数や重相関係数の算出に大学の計算センターの大型電子計算機を利用しました。
先輩の指導の下、計算のプログラムとデータをパンチカードに印して、計算センターに運び、
受付窓口に提出して計算結果をアウトプットしてもらうというものでした。したがって大型
計算機は見ていませんし触ったこともありませんでした。しかしながら計算機とは、有能
で不思議なものであるなと深く印象付けられました。また、丁度その頃、CAD(Computer
Aided Design)ということが話題になり始めました。コンピータで建築設計が可能になると
いうことです。そして、特に内田研究室で研究されているシステムズビルディングやモジュ
ラーコーディネイションなどの考え方とCADはとても整合性のある技術であるだろうと周り
の人もそして私も考えるようになりました。そこで、CADそしてコンピュータを勉強したい
というと思いが募り、CADの発祥の地である米国のマサチューセツ工科大学(MIT)に留
学する決心をしました。MITでは、建築の博士コースには歴史関連のものしかなかったので、
Master of Architecture in Advanced Studies(MAA)というコースに入ることができました。
そのコースは、School of Architecture + Planning内のDepartment of Architectureの所属
です。早速、製図室にCADシステムを探しに向かいました。ところが、そこには、T定規と三
角定規が載っている大きな製図版が並んでいるだけでした。なんと東京大学の製図室と何ら変
わりない光景があるだけで、コンピュータのコの字も見当たりません。私は、一体、ここに何
しに来たのだろうと途方に暮れました。

そこでカリキュラムの冊子を見ているとCADらしきものを教えている授業を発見しました。
その授業の教師はNicholas Negroponte先生でした。そこで、その授業を取り、Architecture Machine Group(AMG*1)という研究室を知り、そこに所属させてもらい、Master Thesis
(修士論文)のアドバイザーをお願いして、めでたく受け入れてもらったわけです。今のよう
に多くの情報がインターネットで簡単に入手できる時代ではなかったのですが、幸運にも私の
望んでいた道が開けていったようでした。
日本では、パンチカードを使い、コンピュータに触らずに計算していたのですが、AMGでは、
今のパソコンのようにコンピュータを使いました。コンピュータは16bitのミニコンピュータ、
それにグラフィック端末機が一台つながれており、一人で占有していました。オペレーティン
グシステムもホームメード、プログラミング言語はPL1でした。その言語のコンパイラーは
Electric Engineering所属の学部の学生のお手製でした。そのコンパイラーには、インターラ
クティブなデバガーも組み込まれておりプログラミングの効率は上がりお蔭で、私は修
士論文のためのプロジェクト(M.A.S.: Multi-Level of Allocation of Spaces)を効率よく進
めることができたと感じています。そのプロジェクトは、建築空間を3次元的にレイアウトす
るシステムです。数年前にYouTube(クリクするとYouTubeへリンクします)にアプロー
ドしました。

 1976年に長島氏が開発した3次元CADシステム

 1976年に長島氏が開発した3次元CADシステム


本格的にAMGで研究し始めた頃(1975年の夏)、英国で病院や診療所をシステムズビルディ
ングで建設し、その設計にCADシステムを使用しているというOXSYSプロジェクトを知る機
会がありました。これは、まさしく内田研究室時代に想像した、システムズビルディングと
CADシステムの理想とする組み合わせが現実となっているわけです。MITの修了後は、
OXSYSのCADシステムを開発している英国のApplied Research of Cambridge Limited
(ARC社)で働きたいと考えて、在学中から実際に就職活動をし始めました。しかしながら、
コース修了時までに採用の返事はもらえませんでした。
修士課程修了後、Fundingを獲得してもらい、AMGで1976年6月から4か月間、Technical Assistant(TA)として働かせてもらいました。
TAの期間も終わるころ、Negroponte 先生が「お前は何をしたいのか?」という質問をした
ので、私は「何か実際に役立つシステムを開発したい。」と答えました。これは、「工学は、
役に立つことを考える学問である。」という内田先生の影響だと思います。そうしたら、
Negroponte先生は「MITでは、可能性を追求するところで、いったん可能であるとわかった
ら、それは民間企業の仕事である。」と言い「それなら英国のARC社に行くのも良いかも
しれない。」と言いました。そこで、ARC社から、採用OKの返事をもらっていないというと、
自ら、国際電話を2,3回、ARC社に掛けて、採用OKの返事を取り付けてくれました。そこ
で9月にTAの期間を終え、10月に渡英しました。英国のCambridge市にあるARC社で念願の
建築設計に実用されているCADシステムの開発に従事できることになりました。

そこで開発されていたシステムは、OXSYSです。Oxford Regional Health Authority
(ORHA:Oxford県とその周辺の保健業務全般を司る組織:1947-1995)は病院・診療所も
建設していました。効率よく建設するためにシステムズビルディングの手法(プレハブ建築)
を採用していました。建物は直方体の部品の集積として設計されていました。そこでその
部品のライアウトをコンピュータで3次元的に行うシステムをARC社は開発していたのです。
私は、そのシステムの開発途中から加わり、部品のグラフィックスを部品毎にレイアウトする
プログラムや透視図を描くシステムを開発する機会を得たのでした。
OXSYSは部品を3次元的に直交座標に沿って配置して、建築を構築するシステムです。部品を
自由に斜めに配置できません。斜めの壁も、斜めの屋根も設計し難い(不可能?)システムで
す。病院や診療所は、戦後の施設の不足を補うためには、これで充分でした。このシステムの
特筆すべきことは、その部品には、文字や数字情報も多く記録でき、それを建物に配置した後、
場所に従って集計し整理できたことです。これは、BIMという概念が成立する以前から、その
機能が実用されていたということです。コンピュータの基本は、情報をデジタルに整理し、そ
れを利用するということで、その機能を素直に実装していたわけです。
また、3次元的に部品をレイアウトするだけではなく、建築の空間(建築部品ではなく、病室
とか手術室とか・・)も直方体で定義して、配置してありました。その空間にも文字や数字の
情報を記録でき、集計し建築仕様書をダイナミックに管理できました。
もちろん、その空間(部屋)毎にどのような部品が配置されているかも管理できたわけです。

このようなことが1970年代に実現していたのです。そして、その後、もっとフレキシブルな
形状の建築物を設計するCADシステムの要求が高まり、一度、自由な曲線を扱うために2次元
のGDS(General Drafting System)の開発が70年代後半に始まり、1980年に製品化され第
号ユーザーが誕生しました。このGDSを日本で販売するために1981年9月に設立されたのが、
弊社です(創立時は、エイ・アール・シー・ヤマギワ株式会社現在の株式会社インフォマ
ティクス)。
当日のセミナーではこのような時代背景の中で約40年前にコンピータが建築設計分野で
どのように使われ始めたかについてのさらに詳しい紹介をするとともにその頃に想い描いた
未来と現在を比べてどう思っているかについてお話したいと思います。


*1 AMGは、1985年に創設されたMedia Laboratory(Media Lab)のベースとなりました。

 GDSのWorkstation

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