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コラム

フェイクの価値

2017.11.07

ArchiFuture's Eye                  ノイズ 豊田啓介

何を隠そう(隠してないが)、僕は安藤忠雄建築研究所出身だ。そして今、六本木の国立新
美術館で安藤忠雄建築展「挑戦」(12月18日まで)が開催されて連日すごい熱気だという。
安藤事務所でプロとしての基礎を叩き込んでもらった身として、自分の関わったプロジェク
トや模型を久しぶりに見れるのもワクワクするが、多くの人が安藤建築に興味を持ってくれ
ることが何よりうれしいし、この機会に社会のいろいろな階層の人が、あらためて建築の価
値、素晴らしさを感じてくれれば素晴らしいことだと思う。
 
今回の安藤展で話題なのは、なんといっても「光の教会」の1/1模型だ。これを模型という
のか実物というのか複製というのか、そもそもこれは建築なのか模型なのか、諸々判断に困
る一品である。なにしろ大阪にある「本物」と同サイズ、同スケールでそのまま再現し、原
理としては本物と同じ空間体験ができる施設となっているのだ。展示としては異例ながら、
この「1/1模型」の設置においては、国立新美術館の増築申請を通した上で建築物として許
可を取っているという。少なくとも法的にはれっきとした建築だ。(ちなみに余談ではある
が、増築申請は安藤事務所の十八番で、安藤忠雄は増改築がとても好きな建築家である。今
どきのリノベとかいうスケールではなく、安定を嫌い、どんどん既存建物を変更・付加・増
殖させる。おそらくは、どんなメタボリストよりも実際に増築、改変を実践し続けている建
築家なんじゃないか)。
 
SNS時代を象徴するというか、今回の「増築」では工事の初期から建設中の新・光の教会の
現場写真がツイッター上などに出回った。僕もその中の一つ、美術手帳の橋爪勇介さんのツ
イートで知ったのだが、今回の光の教会の構造は本家と同じRC造ではなく、鉄骨造PCパネ
ル仕上げという、なかなかお目にかかる機会のない構造になっていることでも話題になった。
これをもってSNS上では残念だわ、フェイクじゃん、建てるのならRCにこだわってほしかっ
た等の意見が多かったように思うが、ぼく個人的には、何かしらの意図を(機能を)体現す
るために、様々な現実的制約(今回の場合にはおそらくは既存構造物上に設置するというこ
とでの荷重制限や基礎が設けられないという条件、工事車両や解体時のクレーン等のアプ
ローチ、工期や解体期間、周囲や既存建物への影響、そしてもちろん予算)などを考えると、
今回の「フェイク」な作り方がベストな回答だったのだろうと思うし、工事中写真の鉄骨が
3x6コンパネの目地通りに配置され、そこに実際のRC壁と同じ厚さに収まるようにギリギリ
で畳み込まれた諸々のディテールを見るにつけ、一つの意図の実現のために、かつ一見普通
で何の工夫もないような結果を獲得するために多くのイノベーションや常識にとらわれない
工夫を尽くす安藤事務所の真骨頂を見たようで、僕は今回ここにこそ一番の見どころがあっ
たように思っている。
 
そもそも光の教会の設計過程では、あの有名なスリットの十字のところにはガラスを入れた
くなかったのだと本人が公言している。表現の意図としては入れたくなかったところに、機
能や実用性との兼ね合いの中、妥協としてのあの枠無しガラスコンクリート直納めという鬼
のディテールが実現している。つまりこの点に関しては、今回の「フェイク」のほうが、建
築家本来の意図をより正確に体現していることになる。実際の教会には側壁に照明なども埋
め込まれているが、当然今回はそんな「余計な」ものも無い。そのより純粋な切れ味するど
い、「本物」では実現できなかったより原理的な空間経験は、ある意味より「本物」なのか
もしれない。ただただそれをあらゆる機会を逃さず実現してしまう安藤先生の底力に、ただ
ただ敬服するばかりだ。
 
今回の教会はRCでないという批評はもとより、本来の教会の用に供していないとか、床が張
りぼてとか、ガラスが入ってないとかPCの目地がずれているとかPコンの形が云々、「本家」
との違いという形であら捜しをすることはいくらでもできる。ただ、だから今回のものを
「フェイク」だ、と一概に定義できるのか。今回ならではの条件を根本まで立ち戻りながら
工夫を重ね、より根本のアイディアに近い形で実現しているという点では、フェイクという
よりむしろ「光の教会 2.0」とでも言えるような創作行為なのではないか。
 
建築は剥製ではない。常にその環境と使う人やモノと、雰囲気と時代と呼応して、変化し生
きているもののはずなのだ。ただそのタイムスパンが通常の我々の生活のリズムやモノの変
化のスピードと大きく異なるだけに、「生きて」いるという感覚的な認識を生じにくいだけ
に過ぎない。これが実際の宗教的儀礼に使われないということが批評の対称になるのなら、
新美術館で光の教会のすぐ裏に展示されていた「水の教会」など、そもそもリゾートの結婚
式場に過ぎないという点で価値がないということになる。人間にとって何がリアルで何が
フェイクなのか、そんな絶対的な定義は難しい。少なくとも、限定的に複合的な価値体系の
ごく一部を切り取る形でしか、リアルとフェイクの定義などしようがない。なんだってある
評価軸ではリアルだし、どんなものでもフェイクになり得る。
 
では、建築のリアルとは何なのだろう。実体である、物理的な構築物であるというあたりす
ら、建築という価値の定義次第ではリアルにもフェイクにもなり得るはずで(例えば建設当
時の環境や気候に対して「正し」かった歴史的建築物が、数百年を経て周囲の環境や経済性
が全く変わり、当初の機能と価値を持ち得なくなった中で、つまりは文脈や機能が全く異な
る中に取り残された建築として、一体何が「リアル」で「正しい」と言い切れるだろうか)、
実際昨今の急激な情報技術の生活への浸透に伴い、そうしたこれまで見えなかった「モノ」
と「情報」、それぞれが持つ価値や実体ということの間にあるズレが、加速度的に増幅され、
実生活レベルで全く無視できない問題になりつつある。馬車や徒歩だけで移動している間は
相対論など気にする必要もなかったが、GPSで生きる我々は相対論を無視して日常生活は送
れないし、量子力学を無視してインターネットも使えない。これまでの価値の常識は、必ず
しもこれからの常識ではない。
 
リアルとは何なのか、フェイクとは何で、フェイクの価値はどこにあるのか。こうした問い
かけは日常のあらゆる部分に生じうるし、我々建築家はそうした気が遠くなりそうな問いを
常に持ち続けなければならない時代に踏み込んでいる。これは我々の好みや選択ではない。
加速度的に変化する社会や技術が否応なく我々を、そうした価値や意味の相対性の世界に、
エントロピー増大則よろしく引きずり込んでいるのである。我々は、その世界をよりよく記
述し制御する、新しい常識という手法を常に模索し構築していかなければならない。常識と
いうものが見えていない、常識を新しく作り続けなければならない、ちょっとパラドクシカ
ルだが、それがこれからの本質だ。
 
先日ちょうどArchi Future 2017が盛会のうちに開催されたところだが、僕が対談をさせて
いただいた暦本先生のレクチャーにも、仮想的なプレゼンスが発信者や受け手のどういう常
識をベースにし、どういう操作でそうしたタガが外れるのか、テクノロジーを使った非常に
興味深い研究が多く紹介されていた。あれを見てこんなものは嘘だまやかしだ(だからコ
ミュニケーションとは認めん!)などと言い切ることは、さすがにこのスマホとインター
ネットによる離散的コミュニケーションの時代には難しい。暦本先生が示したような、テレ
プレゼンスや実体と認識とのズレを増幅する試みというのは、突き詰めれば何が本物で何が
フェイクであるか、という問題の、より連続的で解像度の高い、多様なレイヤからの問いか
けである。その間には驚くほど多様な価値の可能性があり、その間に新しい価値が生じ、ど
ちらが正でどちらが負といったような、次元が確定し白黒明確に線引きができるような単純
な話ではない。そして、だからこそ圧倒的に面白い。
 
フェイクとは、あり得た並行する可能性でもある。文脈や意図によってその価値が変動する
ことも現実にはまた確かだが、同時に文脈や意図を後からでも排除することで、そこに新た
な価値や可能性を読み取ることもまた可能だ。あらゆる事象の価値は、その事象そのものに
絶対的に存在するわけではない。それは読み手個人や社会という集団的主体との間に生じる
関係性のうちに常に新しく生み出されるものだし、読み手の中に形成される写像でもある。
その写像により良い(この判断自体も個人的だ)価値が生まれやすいように自らの姿勢を崩
していろいろな動きを試していくことで、「本物」にも「フェイク」にも、物質にも情報に
も、新しい写像=価値を生成させる可能性が、おそらく無限にある。

         橋爪勇介 @hashizume_y さんのツイートへの筆者の反応
         ※上記の画像、キャプションをクリックすると橋爪勇介さんの
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豊田 啓介 氏

noiz パートナー /    gluon パートナー