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コラム

身体の融け出し/癒着/分裂
―チェルフィッチュとヤン・ゲールについて

2018.01.09

パラメトリック・ボイス                東京大学 木内俊克

明けましておめでとうございます。と書きつつも、この原稿は2017年12月末、出張中の雪に
包まれた東北のとあるホテルの一室にて執筆中。新年に引っ張られた旧年の、そのどちらでも
ないようなタイムポケットに入り込んだ感覚にひたるしばしの時間。よいものです。
さて2017年もいろいろなインプットがあった中、直近で思い出すのはと言われれば、2017年
12月1日から20日まで神奈川芸術劇場で上演されていた話題作、チェルフィッチュの「三月の
5日間」だろうか。滑り込みセーフで19日に何とか見ることができた。ヒントに満ちた素晴ら
しい公演だった。
内容は筆者が説明するよりWikipediaがわかりやすいので、まずは引用する。
 
「『三月の5日間』(さんがつのいつかかん)は、岡田利規の戯曲。2004年に岡田の劇団チェ
ルフィッチュによりガーディアン・ガーデン演劇フェスティバルにて初演、翌年第49回岸田國
士戯曲賞を受賞…
イラク戦争が始まった2003年3月、六本木のライブで知り合いそのまま行きずり的に5日間ラ
ブホテルに泊まり続けたミノベとユッキーの話…しかし劇中では「ミノベ」や「ユッキー」が
そのまま登場するわけではなく、彼らから聞いた話を7人の役者が再現するという形… 役者た
ちは現代の若者のいかにもだらだらとした口調そのままで「これからこういう場面を演じる」
ということの断りを観客に対して行う。…登場人物の行動やそのときに感じ、考えたことをと
きに前後しながら再現してゆく。特にクライマックスがあるわけでもなく最後は5日目に二人
がホテルを出、男が女に割り勘の代金を払ってともに駅に向かい始める場面で終わる」
(Wikipedia「三月の5日間」より引用)
 
面白かったのが(そしてこればかりは見ていない方には何のことやらという部分でもあると思
うのだが)、おそらく上述の「再現」や「『これからこういう場面をやります』の断り」と
いったルールがもたらす効果として、徐々に複数の演者の人が3人くらいで一人の人間に見え
てくるところだった。いましゃべっているのが「ミノベ」なのか「ユッキー」なのか演者本人
なのかも曖昧になっていき、演劇が進むにつれ、それがどんどん融け合っていって7人全体で
一人の人だと感じられる瞬間があったり、と思えばそもそも一人の人物が複数の人格で成り
立っているように思えたり、さらに言えば人格ってそもそも環境や他者とのやり取りで一時的
に固定されているだけのようにも見えてくる。でそうした人の統合と分裂の運動がごく不安定
なバランスを保ちながら展開していく事態が、実はそんなに珍しいことでも何でもなく、いつ
どこでも起こっている日常の延長ではないかということについに気づかされる。つまり人が集
まる場としての都市や街ってそういうものだなということがリアリティーとして感じられる。
そのとき演者の、そしてどうやら日常における私たちの身体でも起こっているこの出来事を何
と呼べばいいだろうか。仮に「身体の融け出し/癒着/分裂」とでも呼べるだろうか。
 
とここまで書いて、文筆家でキュレーターの上妻世海氏がチェルフィッチュをどう見ているの
か気になってGoogle検索してみたところ、「この演劇以降は異なる見立て、異なる約束事、異
なる文法を用いて、同様の、いやそれ以上の虚構の実在性を制作しうることを実験しなければ
ならないと言われているように感じた(僕が勝手に感じただけだろうけれど)」といったコメ
ントや「なるほど、舞台上にキャラクターは2人しかいないのにアクターは4人いるシーンこそ、
キャラクターの一貫性は固有名詞や肉体との一貫性と一致しているわけではないということの
例示としても現れているのか。すごい演出。」などとツイートしていた。やはり(普段から僕
は彼の影響を大いに受けているので)同じ枠組みで見ているのだと納得できた。
 
身体はやはり圧倒的に多様な情報を検知するセンサーで、同時に意識的にも無意識的にも検知
された情報は即座に伝達され複数の身体で共有されるのであり、しかし情報が入ってくる度に
個々の身体では個々の新たな情報が再生産されてもいて、そうして共感覚と誤解がないまぜに
なった個であり群である身体の融け出し/癒着/分裂は日常で同時多発的に起こっている。そ
んな仮説が立てられそうだ。
 
関連して、タイムズスクエアを含むマンハッタンのブロードウェイのパブリックスペース化に
際して、その基盤となった綿密な都市における人々のふるまい調査を行ったヤン・ゲールのリ
サーチに次のような興味深い報告がある。(パブリックライフ学入門〔Jan Gehl & Birgitte
Svarre, How to Study Public Life, Island Press, 2013の邦訳〕の一記載であり、詳しくは
ゲールの主著Life Between BuildingsやCities for Peopleあるいは各論文を参照すべきところ
だが、あくまで徒然のメモにまで)「多くの人たちがパブリックスペースですごす本当の理由
―公共空間のアクティビティとそこにいる理由の調査」のセクションにおける報告で、以下が
その抜粋。
             
「調査の早い段階から、人びとがパブリックスペースで過ごす実質的な理由というものは、つ
ねにあるわけではないということが分かってきました。もし、人びとになぜパブリックスペー
スにいるのかを尋ねれば、買い物や何らかの用事があって街に出てきたと答えるかもしれませ
ん。…しかしこのとき、人びとがパブリックスペースにいる本当の理由とは、他の人びとのパ
ブリックライフを見るためでもあるのです。…人びとが…滞留している理由はひとつではなく、
行動の曖昧さが見てとれます…多くは何か必要性のある行動の延長としてそこにいる…パブ
リックスペースに人が集まるのは、単純にその場にいたいからです。言い換えると、パブリッ
クスペースでの見る/見られるの関係性が人びとを惹きつけているということです。」
(ヤン・ゲール、ビアギッテ・スヴァア著「パブリックライフ学入門」より引用)
 
ゲールは、多くの人がパブリックスペースに滞在する理由として、必要行動の延長上で発生す
る任意活動と認められる他者との場の共有があることを指摘している。そこでもう一度、上述
の「身体の融け出し/癒着/分裂」が街で起こっていることの、そして私たちが都市を形成す
ることの核ではないかという仮説に戻れば、ゲールの指摘はとても興味深い証左だと気づく。
私たちは必要行動の延長上で、事実パブリックスペースで他者との直接的/間接的なコミュニ
ケーションを持とうとする。そうすることで他者と融け合い、分裂し、そして自分という存在
の境界線を動的に更新していくことで日常を営む。
 
雪に包まれたホテルの一室にこもって原稿を書いている筆者は、タイムポケットに包まれてし
ばしの安定系に身を置いているわけだが、新年ではまた積極的にパブリックスペースに出て行
こう。そして都市という身体がおりなす運動の系へできるだけたくさん介入していこう。(と
言いつつ、筆者は若干シャイな部分もあり、わりと間接的な介入でいけたらな、なんてことも
考えていたり笑)
 
皆様にとって2018年が素晴らしい年でありますように。

 2017年11月、マンハッタンのタイムズスクエアにて。パブリックスペース化されたブロード
 ウェイ(撮影:木内俊克氏)

 2017年11月、マンハッタンのタイムズスクエアにて。パブリックスペース化されたブロード
 ウェイ(撮影:木内俊克氏)