Magazine(マガジン)

コラム

「データや情報が個人にささる」ということ

2019.09.17

パラメトリック・ボイス            木内建築計画事務所 木内俊克

前々回これまで筆者がArchifuture Webのコラムで考えてきたことのまとめとして「もの
イメージ・テキスト・音声など様々なメディアにより支持され交換される情報が、コミュニ
ケーションを生むことで価値に至る仕組み…(その)系全体への漸進的な介入に、細やかで具
体的な道筋を与えることを促していくものは、やはりどれもとても面白い…分散ネットワーク
的な実装への具体的方途と、データや情報が個人にささるアクセスの回路をいかに両輪として
使いこなせるか」といった指摘と問いかけをメモした。

そして前回はそうした気分の中WIREDのミラーワールド特集を起点に今後社会で生成され
続けている膨大な情報が着実にデジタル化されていく現実に目くばせしながら、なおそこから
しばらくは取りこぼされてしまうだろう日常空間のアーカイビングをこそやはり考えたい、と
いった内容のことを書いた。

こうしてあれこれ振り返っていく中、一つ気づいたことがあった。それは、「日常空間のアー
カイビング」に関するヒントとして、これまで「分散ネットワーク的な実装への具体的方途」
に関わる事例収集や考察は多々コラムの中で取り上げてきたものの、もう一点の重要なポイン
トである「データや情報が個人にささるアクセスの回路」については、よくよく考えるとあま
り議論してこなかったのでは、ということだ。

特に意識していたわけではないので、やはり「データや情報が個人にささるアクセス」につい
て「考える」というのが、なかなかにハードルが高く、自然とそうなっていたのだと思う。だ
からしてどこまでいけるかわからないものの、では「データや情報が個人にささる」とはどう
いうことか、今回はそのきっかけだけでもつかみたく考えを進めてみたい。

そもそも何の話をしているのか。
人に働きかけ、情報を収集したり提供したりする仕組みの「分散ネットワーク的な実装への具
体的方途」はあくまでやはりシステムやその実現方法についての議論であり、その方法がいか
に高度で一見ひとつのソフトウェアやハードウェアの形を取っていないとしても、仕組みとし
ての実体がある点で議論しやすい。その仕組みがどうコミュニケーションの媒介としてすぐれ
ていたり興味深いかなど、評価もしやすい。
一方、「データや情報が個人にささるアクセスの回路」は、具体的には個々人の経験の中にあ
るひとつづきの情報処理のつらなりそのもので、途端にそれについて議論することがむずかし
くなる。つまり、誰がどういった瞬間に何らかの理由で何かを経験し、そのとき目にどんな景
色が飛び込んできて、同時に誰かから何かを聞いたか、何かを読んだかして関連する情報を得
て、結果かつて経験した何かを思い出し、そのすべてがむすびついてポジティブかネガティブ
か、またそうした言葉ではくくれない何らかの感覚を抱き、それが経験として強い強度を持っ
て印象に残ったり、何ということはないささやかな経験として目の前を過ぎ去っていったりす
る、そうした一連の事象のことだ。捉えどころがない。どこからはじめればよいのか。

そこでいま一度これまでの議論を振り返ってみる。すると2018年に書いた「関数を具象的な
入出力の集まりのみで捉えるようなこと」
及び「感性の計算──世界を計算的に眺める眼差し」
で記した一連のメモに、ひとつの切り口が提示されていたように思えてくる(詳細は同記事を
直接参照されたい)。

メモを要約する。
「感性」は、感性工学の中では認知的なインプットに対して表現を返す関数として捉えられる。
この関数としての感性は外的な刺激や個々人によって異なる。関数がどう働いているかは、特
定の入力に対してどんな出力があったかによって把握される。
さらに身体論を専門とする美学者の伊藤亜紗氏は、人間の身体はほぼ必ずと言っていいほど、
他者や道具との依存関係においてはじめて働くことができるもので、その特徴的な例として障
害をもつ身体を提示する。身体がサービスへの接続で好ましい状態になることを「ノる」、
サービスに過度に依存して逆に不自由になることを「乗っ取られる」と呼ぶ。そして「乗っ取
られる」状況を回避する為には、身体がサービスに接続して働くところの一連の系に含まれる
「エージェントの中心が1カ所ではなく、あちらこちらに分散している状況をつくること」が
要求されるという。
感性工学的に言い換えれば、たとえば歩行が靴というサービスにより拡張されている際、身体
が「ノっている」状態にあるうちは、足は軽快なテンポで地面との荷重の授受を繰り返すが、
特定の歩き方に過度に依存することで足の特定の部分に荷重の授受が偏りはじめ、もはや靴の
ある部分が足に当たっている感覚が芽生えると、それが痛みとして先鋭化してしまい、歩行は
逆に阻害されるようになる。「乗っ取り」がそこに生まれる。その回避の為には、やはり荷重
は分散して伝達されねばならず、特定の歩き方に偏らないバランスの維持が要請される。

ここでもう一度、「データや情報が個人にささるアクセス」の話に戻ろう。個々人の経験の中
で発生する一連の情報処理は、確かにそれ自体具体的に捉えることはできないものだが、その
ときある個人の周囲で発生している情報群をリストアップすることはできるし、その結果その
個人から出力される諸々の情報(表情や心拍数や体温、呼吸、さらには何がしかの発言、ある
いは無意識的な行動まで)も計測することは可能だ。
そしてその入出力がパターン化し、反復する様が観察できれば、身体が意識的にか無意識的に
か特定のパターンを求めて反復が生じているはずという意味で、そのパターンは身体にとって
「ノっている」状態を示している可能性がある(逆に、ある「パターン」が読み取れていた状
態から不安定化し、ランダムなカオス状態に移行していけば、「乗っ取られている」可能性が
高いと言えるかもしれない)。そしてまさに、その「ノっている」状態こそ、「データや情報
が個人にささっている」状態と言い換えることができるのではないか。

「ささっている」=「ノっている」という感覚は、ここまで追いかけてみると、必ずしも意識
的な反応である必要がなく、その際鍵となっている情報が所在している次元も、言語化可能な
領域にあっても、非言語的な身体感覚に励起している情報であっても、どちらにおいても定義
が可能であるところが興味深い。

ここまで書いてみると、いまやネットサービスにはほぼ標準的に実装されるようになったレコ
メンドアルゴリズムも、考え方としては同様の枠組みにより、個々人に対して供給される情報
が「ささっている」かを判定していることを思い起こされる。が、一方で感性工学や伊藤氏の
身体論を経由した後に気づかされることは、とはいえ一般にレコメンドアルゴリズムが取得し
ている入力も出力も、個々人の「ノり」を把握するにはいかにも部分的な情報のみしか扱えて
いないということだろう。

であれば次に捉えるべきは何か。
おぼろげながら見えてくる目的意識は、やはり関数としての「感性」に入出力されている情報
の細やかな機微を捉える道具立てを、いま我々はどれだけ持ち得ているか、ということではな
いか。今回の議論ではまず議論の枠組みを捉える地点に終始してしまったが、次回以降、ぜひ
本稿で捉えられた目的意識に沿って、より具体的な事例にフォーカスしながら掘り下げて考え
てみたい。コラム16本目にして「公共空間と情報の所在について」の議論は折り返し地点を
むかえたようでもある。うれしい限りだ。

 筆者愛用のspotifyにより推薦された楽曲プレイリスト

 筆者愛用のspotifyにより推薦された楽曲プレイリスト

木内 俊克 氏

木内建築計画事務所 主宰