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コラム

「客観×申告データ」としての官能都市指標

2019.11.19

パラメトリック・ボイス            木内建築計画事務所 木内俊克

前回のコラム「“データや情報が個人にささる”ということ」の中で、「関数としての“感性”に
入出力されている情報の細やかな機微を捉える道具立てを、いま我々はどれだけ持ち得ている
か」といったことを書いた。これまで物理的な空間としての公共空間が、いかに情報空間とハ
イブリッドし、その意味が瞬間瞬間で書き換えられ続けているだろうこと、そしてその意味は
それを体験する人、一人ひとりにおいても少しずつ異なるものであるだろうこと、だからして
公共の場をより豊かにするデザインの実現を考える上で、まずその一人ひとりが経験するとこ
ろの場の体験=一人ひとりが場の何をどうインプットし、それにどんな反応をアウトプットと
して返したかを記録/記述できるかが問われている、という背景があっての問いかけだった。

こうした問いかけに対し、もっともまっすぐに取り組んでいるものに、いわゆる一連の都市指
標がある。調査という体裁の上ではじめて成立する形式であることが多い点には常に留意すべ
きだが、一人ひとりの体験の集積としてしか評価しえない都市というものの像をいかにして浮
かび上がらせるかが様々に検討された指標を見ていくと、個人の体験の抽出という観点におい
て有効な視座が提示されているものが多々散見される。中でも、「身体で経験する都市」と銘
打って指標をつくりこんでいる「Sensuous City[官能都市]」の指標構成と、その前提とし
ての先行調査レビューは興味深く、以下くわしく見ていきたい。

官能都市の先行調査レビューでポイントとなっているのは、都市指標を構成するために用いる
データが、客観的データか主観的データかという軸、またそれとは別個のものとして観測デー
タか申告データかという軸、の二方向から指標の特性は分類できるという点だ。そしてこの視
点から捉えると、官能都市指標がリリースされた2014年時点で存在した都市指標群は、ほぼ
例外なく客観×観測か、主観×申告のどちらかの類型に属していて、官能都市指標がその特徴
であるとして打ち出している、客観×申告データを用いた指標が他に存在しなかったと述べら
れている。
客観か主観かはわかりやすい区別だろう。つまり、同じ駅への利便性について語るとしても、
客観データであれば徒歩500m圏内に駅があるか否かといったように、10人の人が10人同じ
答えにいたる客観的な事実を記録したデータということになり、主観データは逆にあくまで回
答する本人が駅を近いと感じるか否かが問題であり、その解答方法もYes/Noの二値による回
答から、すごくそう思う/そう思う/どちらでもない/あまりそう思わない/まったくそう思
わないといった曖昧さを含んで解答を得るもの、さらにそれを11段階(0~10)などのスコア
で置き換えたものまで多岐にわたる。では観測か申告かはどうか。観測データとは、文字通り
行為の主体ではなくとも、外から行為する人物を観察することで得られるようなデータであり、
内容も一定の共通基準で誰でも測定可能な対象に対して取得されるものだ。一方、申告データ
とは、観測によっては得ることがむずかしく、行為の主体からの自己申告によってはじめて得
ることができるタイプのデータということになる。この境界線はいかにも微妙だが、たとえば
特定のエリアの通勤者が今朝の通勤途中に一度でも公共空間の中でどこかに座ったかどうかと
いったデータは、もちろん特定の人物の通勤を一部始終モニタリングすれば観測できない事実
ではないかもしれないが、実際データとして価値が出る一定数をサンプリングするには効率が
悪すぎ、ほぼ自己申告によってでなければ得ることがむずかしいデータであるということがで
きる。
そしてこうした区分けを設定し、官能都市指標の先行調査レビューは、レビュー内で主要な先
行都市指標として挙げられている週間東洋経済の『住みよさランキング』をはじめ、森記念財
団による『世界の都市総合力ランキング』、一世を風靡した「ゲイ指数」を含むリチャード・
フロリダによる都市評価指標など、都市指標に類する多くの指標、あるいは非常に類似した
ジャンルとして着目できる幸福度評価指標の多くについても、そのほとんどが客観×観測デー
タである事実を指摘しているというわけだ。
この事実は当たり前といえば当たり前の帰結で、第一に都市の状態とは何かという観点は、
一般には長らく経済成長期に形成された価値観の枠組みの中で、ハード側の機能や仕様の一方
向的な充実が即座に人々の満足度に直結すると考えられてきたことが前提にある。そして第二
に、そもそも主観データや申告データの取得の困難さもその大きな要因で、前提として注意を
払われてこなかった主観データ、申告データに、わざわざ通常以上の対価を払ってアクセスす
る主体が今まで希少であったということが指摘できる。
近年に至って、ようやく客観×申告データである官能都市指標や、その他主観×申告データの
例として挙げられている「荒川区民総幸福度」などが、ボトムアップな都市の価値生成プロセ
スに着眼する指標として登場し、ようやく主観データ、申告データのストックが蓄積されはじ
めているわけだが、一方で上述の客観×観測データに重心がある都市データの状況は、いまだ
大局的にはそのバランスに劇的な動きはないまま現在に至っているように思える。

では、今後主観データ、申告データの総量はどんな展開をもちえるのか。その問いを考えてい
く上で、それに類するデータがどう日常の中で蓄積されていく契機をもちえるのかを考えるこ
とには意味があるはずだ。
Google検索など、我々が日常的に身体化しているサービスにおいても既に実装されているも
のとして、主体的に自らの行動履歴のモニタリングをON/OFFできる、観測と申告の中間領域
ともいえるような仕組みは既に存在する。通常、モニタリングをONにしておくことに行為主
体がメリットを感じればモニタリングをONにしプライバシなどを優先すればOFFを選択す
ることもできる、ごく単純な仕組みだ。さらに類似したシステムに目を向ければ、近年まで
MITのMedia Labで取り組まれていたAction Pathのようなアプリにも、似た構造を読み取る
ことができる。都市の中で不便を感じた場所について、公共のサービスに報告できるという機
能がアプリの基本部分だが、それに加えて自分があげた報告がきちんと改善に至ったかの
フィードバックを得ることまでできるという点が特徴であり、この点はただ単に自らの日常の
モニタリングを一個人の中にとどめない方法の萌芽をそこに見ることができる。
つまり、たとえば自らがたとえば公共空間ですごす際にその場所についてポジティブな発話を
していたか。あるいはネガティブなコメントを残していたかを、何らかの方法でプライバシー
は担保されるとして、主観的・申告的なデータとして残すことができれば、それはGoogle
Mapの施設情報に点数を残していくのと同様に、あるいはそれ以上の精度で自分がかかわりの
ある場所の評価に加わることができる可能性が広がる。そしてそこで残した評価により、どん
な変化が生まれているかを日常の中でそれとないフィードバックとして感じることができれば、
自らが過ごす日常の中に少しだけ積極的な行動の契機をイメージできるようになっていくかも
しれない。

指標を指標にとどめておけば、それは評価の体系という域を出ないかもしれないが、ちょっと
した情報の受け渡しの回路を整備できれば、日々のアクションを公共空間の価値生成につなげ
る可能性は広がりうる。その可能性は、もっと意識されてもよいのではないか。

 Sensuous City[官能都市]-身体で経験する都市:センシュアス・シティ・ランキング
   より転載(P41に掲載されている、センシュアス・シティ上位都市のランキング20位まで
   を抜粋)。
   ※上記の画像、キャプションをクリックすると画像の出典元のLIFULL HOME'S 総研のWeb
   サイト(PDF)へリンクします。

 Sensuous City[官能都市]-身体で経験する都市:センシュアス・シティ・ランキング
   より転載(P41に掲載されている、センシュアス・シティ上位都市のランキング20位まで
   を抜粋)。
   ※上記の画像、キャプションをクリックすると画像の出典元のLIFULL HOME'S 総研のWeb
   サイト(PDF)へリンクします。

木内 俊克 氏

木内建築計画事務所 主宰