震災と建築
2021.09.24
パラメトリック・ボイス
明治大学 / 川島範久建築設計事務所 川島 範久
2011年3月11日14時頃、東日本大震災が発生した。前回のコラムで紹介した『ソニーシティ
大崎』が竣工する約1週間前、引き渡し直前に現場案内をしている最中のことで、内部の避難
階段で地上レベルに向かっているところだった。『ソニーシティ大崎』は超高層ビルとしては
珍しく免震構造を採用し、大崎駅から続くペデストリアンデッキレベルより下部がSRC造、免
震層を挟んで上部がS造(柱はCFT造)という構成だ。中間層に免震層を設ける際は、上部構造
と下部構造の境界ラインにエキスパンションジョイントを設け、地震時の変位をそこで吸収す
ることになるので、この建築物の中で最も地震の影響を受ける場所なのであるが、皮肉にも私
は、地震発生時にちょうどその近辺におり、エキスパンションジョイントが機能することを目
視で確認することになった。しばらくして大きな揺れが収まり、階段を地上まで降りて外に出
てみると、周りのビルからも多くの人が外に出てきていた。道からビルを見上げると、巨大な
超高層ビルが、大きな舟が海で揺られるように、非常にゆっくりと左右に動いていた。その後、
8階の現場事務所に戻ると、棚や書類などは一切倒れておらず、上部構造は安全であったこと
が確認できた。ワークプレイスの窓から、東京湾方向を見ると黒い煙が立ち上がっているのが
見えた(恐らく千葉製油所のタンクでの火災が見えていたのだろう)。巨大津波の到来の映像
がテレビに流れていた。
JR大崎駅は閉鎖され、復旧の見込みが立っていないとのことだった。近くのコンビニに行って
みると、食料などはほとんどなくなっていた。日付が変わる頃、都営地下鉄が復旧したという
連絡が入り、徒歩で向かうことにした。帰れなくなった人たちで大賑わいの居酒屋を横目に駅
に向かって黙々と歩いた。深夜二時近くだったかに自宅に着いてみると、築年数が古いマン
ションで旧耐震だったこともあり随分と揺れたようで、壁際にあったはずの冷蔵庫などが部屋
の中央に移動しており、棚から飛び出たモノが床に散乱していた。テレビをつけると、大規模
な火災の映像が流れていた。疲労困憊でそのままベッドに倒れ込んだ。翌日は自宅待機となり、
テレビでニュースを見ていると福島第一原発1号機爆発の映像が流れていた。
その後、この福島第一原発事故が要因で、関東では3月末まで輪番停電が時折行われた。東京
には福島からも電気が届けられていたことを、この時はじめて認識した。そんなことも認識せ
ずに「サステイナブル建築デザインをテーマに」などと語っていたことが恥ずかしくなった。
それまでは、電気・ガス・水といったものが都市インフラを経て建築物まで届けられることは
当たり前で、それは前提としてそこから先で建築物において消費されるエネルギーや水の量を
減らす工夫を考えることが建築における環境デザインの課題だと捉えていた。しかし、この都
市インフラは決して当たり前のものではなく、実に脆弱で、しかも消費される中央の都市から
は遠く離れた周縁の地方から届けられているものだった。原子力発電についても、CO2排出量
が少ない発電技術で地球温暖化防止に寄与するものであるという認識はしていても、それが抱
えるリスクについて正しく認識していなかった。建築物は複雑なネットワークの中で成立して
いるにも関わらず、それらとは切り離して設計することができると考えてしまっていた。
私は途方に暮れてしまった。建築は無力なのか? 技術は何のためにあるのか? これから追求
しようとしていた「サステイナブル建築デザイン」というものがわからなくなってしまった。