カーボンニュートラルを語るナラティブについて
2022.01.11
ArchiFuture's Eye 日建設計 山梨知彦
■カーボンニュートラルの状況
カーボンニュートラルに企業が注目する時代になった。特に、グローバルに活動する大企業が、
企業活動に伴う義務に留まらず、大きなビジネスチャンスとして積極的に捉えているという点
が、これまでとは違っている。建築の設計に際しても、これまでカーボンニュートラルを提案
するのはもっぱら設計側からであったが、丁度コロナ禍に重なった2020年から21年を境に、
クライアント側から強く提案を求められる機会が激増している。ところが、建築物の運用時の
カーボン排出ゼロ達成の特効薬は、現状では再生可能エネルギーの利用に大きく頼っている状
態である。加えて、建物建設時のカーボン排出の抑制の方にも決定打を欠く状態である。こん
な状況もあり即効性のある切り札を求めて、建築関連業界においても、カーボンニュートラル
はコロナ後の業界の趨勢を決める大きなトレンドとして捉えられ、注目が集まっている。
とはいえ、建築設計の分野がお手上げの状況というわけではない。これまで培ってきた自然換
気やダブルスキンなどの技術やその丁寧な運用、さらには木質の適切かつ積極的な利用など、
単体では派手さは欠くもののそれらの適切な組み合わせにより、建築は地道に、だが確実に
カーボンニュートラルという社会課題に向って前向きに対応している。いやむしろ、この重い
課題への対応には、こうした堅実な努力の積み重ねが王道かつ近道であるのかもしれない。特
効薬の開発も必要ではあるが、むしろビジネス的ヒートアップに乗せられ、見かけは派手だが
チープで実際の効果が疑わしいものや、軽はずみに安易なものに流れること無く、本質的なも
のを追求する姿勢を貫くことが大切だろう。
本質的なものを丁寧に追求していく上で重要になるのは、カーボン量を計測/評価するベースと
なる基準や方法のグローバルな統一と透明化と共有ではなかろうか。このテーマは、地球全体
で全ての人々が取り組まなければならない社会課題である。にもかかわらず、現状ではカーボ
ンニュートラルが人類にとって避けては通れない大きな課題であると認識はされ始めたものの、
何処かまだ他人事で、個々人のレベルで「自分事」として共有されるには至っていない。カー
ボンニュートラルという大きな社会課題を、より多くの人々に身近な自分事として捉えてもら
うためには、説得力を持った「物語り」が必要そうに思えるのだが、いかがだろうか。
■ナラティブとしてのシミュレーション
僕自身は、この物語りの役割を果たし得る最有力の一つが、コンピューターシミュレーション
ではなかろうかと考えている。シミュレーションは、専門家のみならず一般の人々にとっても
最近はなじみのあるものになってきた。きっかけの一つは、コロナ感染者の推移の予測にシミュ
レーションが導入され、メディアがそれを連日のように報道してきたからだろう。加えて、人
流の中での感染者との接触予想(エージェント型の人流シミュレーションを利用したものだろ
う)、咳による飛沫の室内での拡散状況やマスクの通過状況の予測(CFD型のシミュレーショ
ンを利用したものだろう)なども、シミュレーション動画とともにテレビやネット上で公開さ
れ、多くの人々の目に触れるようになってきた。さらには、25名もの犠牲者を出した大阪ビル
火災の報道では、多くのニュースで火災や一酸化炭素の広がりを、シミュレーション(こちら
もCFD型のシミュレーションだろう)動画を使ってわかり易く説明し、一酸化炭素中毒の危険
性を指摘していたことも記憶に新しい。
話は一旦変わるが、クライアントへの提案説明やプレゼンテーションを行うビジネスパーソン
の間で、ここ数年話題になって来たキーワードに「ナラティブ」がある。ご承知のように、こ
れまで「物語り」や「ストーリー」と呼ばれてきた、プレゼンターが説明やプレゼンに際して
語る、聞く人の共感を呼び心をつかむための、世界観を伴った物語りのことである(もっとも、
「ナラティブ」とわざわざ言い換えるからには、そこには物語りやストーリーと呼ばれてきた
ものとの間には何らかの差異があり、着目する点に違いがあってのことと思われるが、ここで
はその差異には触れない)。今や、物事の説明にはナラティブが重要とされる世の中になって
いる。過酷な競争下に置かれたビジネスパーソンは、納得感のあるナラティブを躍起になって
求めている状況なのである。
こんな状況故に、「カーボンニュートラルという大きな社会課題を、より多くの人々に他人事
ではなく自分事として身近に捉えてもらうための物語りが必要か?」という問いに対して、
「yes」かつ「シミュレーションをナラティブとして使うことが有効である」と返したい。
ただし既に指摘したように、カーボンの計測や計量自体にも、更にはシミュレーションのルー
ル自体にも、現時点では確固たる統一的基準が見当たらない(いや、僕が理解できてないだけ
かもしれないが)。説得力のあるナラティブとしてシミュレーションを位置付けるならば、そ
のベースとなるデータやシミュレーションの仕組みを透明にしなければならない。国やCOPが、
2030年時点や2050年時点での目標値のみならず、そのナラティブとしてわかり易いシミュ
レーションやそのベースとなるルールや基準を合わせて公開したら、この危機的状況が自分事
として広く人々に共有される可能性が少しは高まるのではなかろうか。
■虚構としてのシミュレーション
蛇足ながらさらに加えれば、シミュレーション自体がある想定の下に創られたモデルであり、
決して現実と同一のものではないことを、明確にする必要がある。ファクトと思われがちな
データも同じ。現実のある側面を捉えて数値化/抽象化したモデルであり、ある条件下ではファ
クトに近いリアリズムを持つことが出来るものの、決して現実そのものではないことや、導か
れた答えが必ずしも正しいとは限らないことをきちんと説明することも必要だ。
この「事実を明確にする」ということが、一般大衆がカーボンニュートラルは自分事だと納得
するためのナラティブとなる上で大切である。同時に、シミュレーションのルールとデータの
透明性を上げることで、より多くの専門家により議論が深められ、既定のものを超える新たな
シミュレーションを生み出し、それを受け入れ、目標を適宜見直し、制度を向上させる柔軟性
を内包する仕組みとすることが大事ではなかろうか。
サピエンス全史の中で、著者のユヴァル・ノア・ハラリが、我々ホモサピエンスが現在の存在
になりえたのは、「虚構」を描き、それを仲間と共有する力を持ったからだと唱えている。こ
の説に乗れば、ナラティブもシミュレーションもデータも、信ぴょう性が高そうな故に人々に
広く共有されやすい虚構ということになる。決して現実ではないからこそ、現実に近づけるた
めの努力は無限に出来るわけだし、そこにモチベーションを持つことこそ、人類の進化の原動
力であろうから。