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コラム

自然・人間・コンピュータ

2016.03.22

ArchiFuture's Eye                慶應義塾大学 池田靖史

建築コンピューテーショナル・デザイン分野の著名な大学教授をフランスから招聘したところ、
初めての来日で建築文化財のデジタル記録についても専門ということなので京都の日本庭園な
どに案内した。案内と言っても私の歴史知識もかなり怪しいものなのだが、それでも一緒に回
りながらなんとか日本人代表としてヨーロッパの文化との違いを一生懸命説明しようと試みて
いるうちに「デジタル」を新たな文化的コンテクストと捉えている共通意識を反映してか、何
やら文明論的な議論にもなってしまうので不思議なものだと思った。

単純に言うと伝統的な日本庭園は自然景観のミニチュアと捉えることもできる。しかも借景な
どの技法を使って本物の自然景観との連続を意識し、それでいて、その状態を造り続け保つた
めに膨大な手間を掛けることを「楽しみ」としている。ここに「自然」と「人工」との関係に
関する哲学的な論点があるように思えるのである。ベルサイユのようなバロック式庭園にして
も、ローマのハドリアヌス帝のヴィラにしても、人間のデザイン行為は自然と明確に分離され、
際立って浮かび上がるように理性的な幾何学が駆使され、樹木でさえ等間隔に植えられる。つ
まり「自然」と「人工」は対立するものであり、自然現象を観察し克服できる人間の存在と視
点があって初めて「世界」が成立すると考える人間中心主義である。

それに対して伝統的な日本人は自然に現れる不規則な配置や予定できない変化を人工的に再現
することに躍起になり、自然と人工の境界を曖昧にすることに執心して、か弱く微妙な人間の
存在を痕跡としてとどめるかのように石灯籠を置く。その製作プロセスも直感的かつ継続的、
非属人的なものであって、ひとつひとつの要素を置いてみては様々な方向から眺め回して修正
し、時間たって変化が起きるとまたその観察から新たな修正点を別な人間が思いつくというこ
との無限な繰り返しをよしとしている。つまり自然と人間たちの相互対話のような行為から時
間を掛けて人工と自然が少しでもなじみ合う行為を希求しているように思えるのである。時に
は自然が非情にもその一部を破壊するほどの荒々しい仕打ちをすることがあるにもかかわらず、
それさえも受け入れて造り続けるのは、そうした行為そのものがむしろ人間の得られる生き甲
斐であり、その中で自我すら曖昧にすることが哲学的な存在を意味付ける方法であると考えて
いたからではないだろうか。

この自然をコンピューターに置き換えると、日本人がアルゴリズミック・デザインというコン
ピューターとの共同的な知的プロセスについて、人間中心主義の世界観を持つ文化よりも比較
的に拒否反応が少ないことの説明になるのかもしれない。確かにコンピューターも人工物であ
るのだが、張り合うべき相手ではなく相互対話の中から一緒に社会を構成していくしかない存
在になりつつある点では似たところがある。そしてそうしたプロセスを知的なゲームとして楽
しむ文化的素養があるのだろう。これからの文明において自然でも人間でもない3番目の存在
としてのコンピューターをどのように扱うべきなのか、哲学的な議論とともに京都の夜は静か
に更けていった。

 円通寺庭園 遠景に比叡山

 円通寺庭園 遠景に比叡山


 修学院離宮

 修学院離宮

池田 靖史 氏

東京大学大学院 工学系研究科建築学専攻 特任教授 / 建築情報学会 会長