わかりにくい僕ら
2025.01.23
パラメトリック・ボイス 髙木秀太事務所 髙木秀太
イラスト:溝口彩帆
わかりやすさの罪
年末休暇にて。故郷・長野に帰省する新幹線の中でとある文庫本を読んだ。タイトルは「わか
りやすさの罪」、ライター・武田砂鉄さんの著書。2020年7月単行本刊行。僕が読んだのは
2024年1月に発売された文庫版の方。とても面白かったので一気に読んだ。僕がここのところ
なんとなく頭の片隅で考えていることが、4年も前にこんなに深く考察されていたなんて、と
いう感じ。この本がどんな本なのかを「わかりやすく」説明する、、、なんてことはこの本に
対する冒涜なんだけど、それでも、僕が印象的だったお気に入りの一節を紹介させてもらうく
らいなら「罪」にはならないかな、と思い下記に引用してみる。「はじめに」から。
人に同意を促すためには説明が必要。どうして私がこれを好んでいるのか、だとか、話題に なっている社会問題について私が反対している理由はこれ、だとか、時間をかけて説明をす る。その時、とにかく、手短によろしくね、わかりやすくお願いね、小難しくしないでね、 と要求される。わずかな時間でわからせます、と力を尽くさなければ、話を聞いてもらえな い。あらゆる場面で、短時間で明確な説明ができる人をもてはやすようになった。テレビを つけても、活字を読んでも、その基本的な態度が、「忙しい皆さんの手を煩わせることはし ません、少しだけ時間をください。このことについて、わかりやすく説明してみせます」ば かりだ。 武田砂鉄(2020).わかりやすさの罪 朝日新聞出版 |
建築設計×デジタルはわかりにくい
僕が仕事の主戦場にする建築設計×デジタルのフィールドはとても「わかりにくい」。もうヘ
トヘトになってしまうほどに、これまでいろいろな人にいろいろな込み入った話をしてきた。
建築というのはただでさえとても大きなスケールを持っているものなので、これだけでも情報
量が多い。それに加えてデジタル、この分野は進化のスピードと世間の関心が高いのでこれま
た情報量が多い。それらのかけ合わせが「わかりやすい」わけはなく、界隈のみなさんは皆、
似たような環境で今日も苦心しながら「わかりやすい説明」を試みているのだろう。みなさん、
ご苦労さまです。
これまで、たくさんの説明の場面を見てきた。丁寧で誠実なゆえに説明しすぎて場をシラけさ
せてしまう人たち。僕にだって経験がある。そんなとき、決まって出るフレーズは「簡潔にお
願いします」だ。正直に告白すると、僕はこのところ、すべてを説明することを捨てている。
どうせ無理だし、そっちのほうが多数の理解を得やすいだろうと高を括っている。簡素な言葉
で丸めてしまって説明をコンパクトにするのだ。それが「わかりやすさ」だと思っているから。
でも、そんなスタイルに警鐘を鳴らしているのが書籍「わかりやすさの罪」だと僕は自覚した
んだ。ところで、こんなふうに僕が「わかりやすさ」に傾倒しはじめるようになったのはいつ
からだろう。学生のころのある経験が強く影響しているような気がする。
「そういうムズカシイのはいいから普通の設計作品を見せてよ」
15年前、大学生のころから僕は建築設計とデジタルの掛け合わせに可能性を感じていた。建築
とデジタルという途方もない情報同士の掛け合わせの魅力を、直感的に感じ取っていたのだと
思う。そんな無垢な若さで建築学生の青春を謳歌していたのだけれど、事件は就職活動のとき
に起こった。
とある在京の組織設計事務所。設計職で新卒採用の面接を受けた際、15分程度の自己PRタイ
ムがあった。僕はここぞとばかり取り組んでいた建築設計に関するプログラムの話やシミュ
レーションの研究を一所懸命に伝えた。一通り僕からの説明が終わって面接の担当が一言、
「そういうムズカシイのはいいから普通の設計作品を見せてよ」
おそらく僕の説明が下手くそで、早口でいろいろ詰め込もうとするものだから「わかりにく
かった」のだと思う。コンテンツそのものにも興味がなかったのだろう。しかし、である。そ
こで話を切り上げて理解を完全に放棄されるとは思いもよらなかった学生時代の僕は大いに唇
を尖らせた。そう、オトナの世界では、相手が理解できないような説明では「話を聞いてもら
えない」のだ。
イラスト:溝口彩帆
アルゴリズムと説明
現代に戻る。相変わらず僕はクライアントに自身が作成したプログラムの説明をしている。
学生のころよりは「わかりやすさ」を多少心得たような気がするけれど、多分、大部分のそれ
は「わかりやすさ」の演出に過ぎないのかもしれない。ときに難解な部分をあえて省略したり、
安易な流行言葉をつかって相手を納得させては、都度自問自答している。はたして僕は十分に
「伝える」ことが出来ているのだろうか??
一方でずっと不思議に思っていることがある。それは「なぜ、プログラムを説明する必要があ
るのか」ということ。コンピュータープログラムとは自動的な処理手続き(=アルゴリズム)
がプログラム言語で文字通り「すべて」記述される形式を指す。ということはつまり、説明す
べき要素は過不足なく確かに「そこにある」のだ。クライアントが僕らが書いたプログラムを
読んでくれたらいいのに、と思うことがある。実際、最近のクライアントはプログラムに理解
がある方が徐々に増えてきて、(部分的にでも)読解しようとしてくださる方がいる。そんな
プロジェクトは当然、進行がスムーズになる。「わかりにくい」アルゴリズムを通じてお互い
が理解し合おうと努力する健全なコミュニケーションが発生するからなんだ。
イラスト:溝口彩帆
自分のためにわかりにくさと上手に付き合う
先の武田砂鉄さんの本の引用には続きがあって、こう述べられている。
目の前に、わかりにくいものがある。なぜわかりにくいかといえば、パッと見では、その全 体像が見えないからである。凝視したり、裏側に回ってみたり、突っ込んでいったり、持ち 上げたり、いくつもの作用で、全体像らしきものがようやく見えてくる。でも、そんなにあ れこれやってちゃダメ、と言われる。見取り図や取扱説明書を至急用意するように求められ る。そうすると、用意する間に、その人が考えていることが削り取られてしまう。 武田砂鉄(2020).わかりやすさの罪 朝日新聞出版 |
これからも僕たちは「わかりやすい」と「わかりにくい」の間でもがいていかなけらばならな
い。情報の行き来が複雑になった社会で、発信者も受信者も相互に一段階上のコミュニケー
ションの努力が必要だということだと思う。わからないと言う人に説明し続ける努力、わから
ないことを言う人を放っておかない努力。状況を改善するためには歩み寄り続けなければいけ
ない。誰に何を伝えたいのか。誰から何を受け取りたいのか。自分を、あるいは、自分が取り
組んで来たことを大切にするためにも、僕たちは「わかりにくさ」と上手に付き合っていかな
いといけないんだ。