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コラム

手垢のついたデジタル

2026.03.26

パラメトリック・ボイス          隈研吾建築都市設計事務所 松長知宏

最近、AIを前にしてプロンプトを打ち込みながら、なんとも形容しがたい「所在なさ」を感じ
ています。その正体は、単なるスキルの陳腐化への不安だけではなく、もっと根源的な「手応
え」の喪失にあるのではないか。そんなことをよく考えます。

かつて私たちが「コンピュテーショナルデザイン」と呼んでいたものは、端から見れば極めて
機械的でクールな作業に見えたかもしれません。しかし、その実態は驚くほど泥臭く、人間臭
いものだったように思います。一つの複雑な幾何学を立ち上げるために、何百ものノードを繋
ぎ、エラーと戦いながらロジックの構造をひとつひとつ積み上げていく作業は、デジタルとい
う皮を被ってはいるものの、極めて「手垢のついた」手作業に他なりませんでした。

マーク・トゥエインは晩年の作品『人間とは何か』で、人間を外部刺激に反応するだけの機械
だと冷徹に定義しましたが、もし私たちが「設計する機械」なのだとしたら、その創造へのモ
チベーションを支えていたのは、道具が返す「重さ(抵抗)」だったように思います。いくら
デジタルになったとはいえ、なかなか思い通りに動かないコード、破綻するジオメトリといっ
た壁にぶつかり、試行錯誤の末にようやくイメージが形になった瞬間、私たちは「自分がこの
形状・空間を構築したのだ」という強い手応えを感じられていました。

この手応えこそが、私たちの創作意欲を掻き立てるモチベーションとなっていました。汗を流
し時間をかけて論理を積み上げる過程で、設計者の意志や迷いが、目に見えない「手垢」と
なって作品にこびりついていた。だからこそ、完成したものは単なる計算結果ではなく、自分
の一部であるという実感が持てたように思います。

対して、現在の生成AIはあまりにもあっけなく正解(と思われるようなものも含めて)をアウ
トプットしてきます。その「手応えのない」出力プロセスは、作り手からプロセスの楽しみを
奪い、結果として達成感をも希薄にしてしまっているようにすら思います。どれほど完璧で隙
のない結果がモニターに映し出されても、そこには私たちの「手垢」がつく隙間がありません

AIとのやり取りで「手応え」を失いそうになったとき、私を引き戻してくれるのは、やはり実
際に手を動かして得られる「生身の手応え」です。

例えば、最近3Dプリンタと竹を使った家具のプロジェクトを進めているのですが、デジタル
データをそのまま寸分違わず物理的な形に変換する3Dプリンタに対して、全くばらつきのある
竹の組み合わせでデザインを進めるプロセスは、正確性の極致と自然素材という「ままならな
い」ものとの調和のプロセスだと感じています。

3Dプリンタが作り出す造形は、1ミリの狂いも許さない数学的な正解かもしれません。しかし
そこに組み合わせる竹は、一本として同じ太さのものはなく、節の位置も曲がり方もバラバラ
です。この「ままならない」素材を前にしたとき、デジタルな正確性だけでは太刀打ちできま
せん。

ここで求められるのは、完璧な計算式ではなく、素材の個体差を許容し、現場の状況に応じて
姿を変える「しなやかなデザイン」です。正確に作ることだけではなく、不確かさの中に秩序
を見出し、それらを調整する楽しみ。そのプロセスにこそ、AIに全てを丸投げしてしまうよう
な味気のないやり取りとは違った、泥臭い「手応え」が宿っています。

モニター上の結果には手垢はつきませんが、現実の世界には重力があり、湿気があり、数多く
のノイズやバグに囲まれた上で私たちの身体があります。AIがどれほど高速に100点の回答を
導き出したとしても、その回答を現実の「ままならなさ」の中に着地させるのは、私たち自身
の生身の想像力がまだまだ必要だと思います。

トゥエインは人間を機械だと言いましたが、もしそうなら、私たちは「ままならない現実」と
いう最も負荷の高いインプットを与えられたときに、最も輝く機械なのかもしれません。もの
づくりのモチベーションを失わないように、これからも手応えのあるデジタルについて実践し
ていきたいと思います。

  AIの考える竹と3Dプリント

  AIの考える竹と3Dプリント


  竹と3Dプリント

  竹と3Dプリント

松長 知宏 氏

隈研吾建築都市設計事務所 設計室長