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コラム

石の上で3年遊ぶ

2016.08.30

ArchiFuture's Eye                  ノイズ 豊田啓介

最近レクチャー後のQ&Aでよく聞かれる質問に、自分のいる会社でも何か新しい動きを始め
たいが、なかなか会社がそうした体制を作らせてくれない。どうしたらいいか?というもの
がある。
 
僕のレクチャーは大抵デジタル技術がもたらし得る可能性こんなにすごいんですみんなで
もっと取り組もうよ!的な内容が多いのだけれど、どんなに固い企業でも学校でも、個人レ
ベルではもっと新しい技術を取り込みたい、そのために何とか状況を変えたいと思っている
人はそれなりの数いるもので、でもそういう人のそういう動きはまだ企業内で本流にはなり
得てなくて(数的にも、世代的にも)、個人の理解がなかなか企業の行動に結びつかないと
いうジレンマは外から見ていても感じられる。
 
それは企業の体制やリテラシーの問題だから、外部にいる僕ごときにどうこうできる範疇の
話ではない。時代のほうが先にそういう方向に雪崩を打って動いていくのだから、放ってお
いても遅かれ早かれそっちに行かざるを得ないとは思うけれど、せっかく質問をしてくれて
いるのに果報は寝て待て的な回答も申し訳ない。ということで大抵、
 
「昼間から徹底的に、堂々と遊び倒してください」
 
と答えることにしている。新しい技術環境なりデバイスなりをとりあえず個人レベルでひっ
そりと導入しても、それを隅っこで申し訳なさそうに使っている間は組織の方は変わらない。
大事なのは組織がそれを使う価値を大いに認めること、使う側のリテラシーが変わること
(部長に今からPython覚えろというのは無理だけれど、GrasshopperとPythonと
TensorFlowが使える人材の有効な使い方とその圧倒的な価値を理解してもらうことはでき
るはずだし、できるようになってくれないと大いにマズい)、強引でもいいから企業にその
環境の圧倒的な有用性を認知してもらわなければならない。そのためには、日中、いわゆる
業務中という罪悪感あふれる時間帯にこそ、堂々と、かつ頑固に「遊び倒す」ことだ。
 
そもそもなぜ新しいソフトなり環境を使っていると(つまりは古い人の目には価値が見えな
いものを使っていると)「遊んで」いるととらえられるのか。さらにそもそも、なぜ仕事で
「遊んで」はいけないのか。仕事ってそもそも楽しいことワクワクすること、新しい発見み
たいなものが積極的に奨励されるべきものじゃないのか。変化の大きな時代の新しい価値っ
て、ほとんどそういう形でしか生まれ得ないものじゃないのか。
 
僕が日本で大学を出て、日本の設計事務所で働いて、30年近くどっぷり日本の環境に浸った
後に初めてニューヨークのSHoPで働き始めたときの驚きは、仕事は楽しめという事務所と
してのスタンスだった。もちろん社是として毎朝「仕事を楽しもう!」と叫ぶとか額に入れ
て掲げてあるとか、そういうことではない。事務所の運営そのものがそういう空気を放って
いる、そうしろよと語りかけてくる、そんな類の空気感は頭がほとんどコンクリートになり
かけていた僕にはとても新鮮だった。
 
彼らは、まあ思いっきり遊ぶ。遊ぶというのには、毎週金曜日は5時以降仕事NGで強制的
にハッピーアワーに連れ出されるとか、ヤンキースタジアムに事務所でシーズンのボックス
シートを持っていてしょっちゅう連れていかれるとか、同僚にバイクメッセンジャーレース
(全くの非合法)に訳もわからず連れていかれるとかそういう直球も含むけれど、ここでの
ポイントは仕事の中でまだ評価しようがないコトやモノにリソースを思いっきり突っ込んで
みるという、仕事面での「遊び」だ。もちろん楽しむイコール真面目にやらないということ
では決してなくて、おおいに真面目に、真剣に、新しい価値や技術を切り開くためにまだよ
くわからないものを「遊び」倒す、遊ぶためには徹夜だって休日出勤だって厭わない、そう
いう類の遊びのことだ。何か面白そうなソフトが出たと聞けばとりあえず興味ありそうな
2-3人をそのソフト専業に指名して、数週間ひたすら使い倒させる。それがどんなアウト
プットをもたらすかも何もわからないまま、とにかく使い倒してみる。日本の企業の価値観
でいえば成果に対する何の保証もないし、上司が正当な仕事かどうか評価できない、いわゆ
る「無駄」とされる作業を、むしろ企業の側、上司の側が積極的に投資として支援するし、
そういう情報の収集や提案を奨励する。実際には、毎回それがバリューを出すわけではない
し、むしろ打率としては実際低いかもしれない。それでも、失敗も多くある前提で可能性の
探索を継続・蓄積し、小さな芽を持続的に育て続けることでしかそういう嗅覚は育たないし、
変化が急な現代に先行メリットを、最新技術の蓄積を、優秀な人材の獲得を維持していくこ
とは難しい。
 
会社ではチャット禁止、YouTube禁止、○○禁止など、僕も経営者のはしくれとしてなんと
なくそうしたくなる気持ちも分かる。けれど、そうすることでどれだけの可能性の芽も摘ん
でしまっているのだろう。楽しむモーメントという、クリエイティブであるために一番大事
な環境をどれだけ削ぎ落としてしまっているのだろう。細かな禁止事項が増えるほどに、自
律的に考え、探索し、価値を探し出す感性と行動力、集団モーメントの麻痺は進行していく。
企業のほうが管理の安易さからそんな状況を作っておいて、今どきの若い奴は自分で考えな
いとか言っているのは、自ら根をガツガツ切っておきながら、元気のなくなった植木に文句
を言う素人園芸家に等しい。「楽しい」環境を維持するのは管理された、つまらない環境を
維持するのよりもよっぽと大変だしエネルギーも工夫も要る。それを十分に理解した上で無
駄を許容すること。いやむしろ、無駄を奨励してそれを評価する、積極的に育てること。正
論なのだけど、でも実際企業の側にそんなことを求めたところで無理ゲーっぽい。じゃあど
うするか。
 
日本人は評価が相対的(水もの)で、見慣れぬ行動でもあまりに自信満々でいると強く指摘
できない傾向がある。本当に環境を変えたいなら、まずは大した自身も確信もなくてもいい
から、日中の一番目立つ時間帯に、何か無駄に見えることを「堂々と」遊び倒し続けること
だ。周りに少しずつ味方もつくりながら、議論も引き起こしながら、目に見えるメリットも
提供しながら、なんとなく、でも粘り強く、それを認める雰囲気を醸造してしまうことだ。
自分がとにかく手段を択ばずに勝ち馬になってしまうこと以外に周りの理解と協力が得られ
る状況なんてそもそも来ないということを、まずは認めたほうがいい。
 
石の上にも3年という。すぐに成果が出ないような状況でも我慢することで異なる(価値あ
る)世界が見えてくるという言葉で、全くもって大事な話だと思う。ただ同時に、成功する
には楽しんではいけない、痛みを伴わなければならないといったニュアンスが多分に、勝手
な世間の解釈として含まれている気配、そういう理解を求める同調圧力がどこかにある(痛
みを伴わずに成功する人を根拠なく妬む傾向すらある)。現実には、思い切り楽しんで、遊
び倒すことからしか生まれ得ないことはたくさんある。いや、むしろ今のような変革の時代
には、そのほうがむしろ多くなってきているのではないか。その人なりに楽しいことを楽し
み倒せることは努力であり才能なのだから、徹底的に楽しんで突き詰められる、楽しむ方向
が自分で探せる人材を育て、評価し、全力でサポートする、そんな企業がもっと増えたら楽
しいのになと思う。質問に答えながら、一応そんなことを思っています、心から。

豊田 啓介 氏

noiz パートナー /    gluon パートナー