京都のリスペクトサイクル
2016.09.29
ArchiFuture's Eye ノイズ 豊田啓介
最近、久しぶりに京都の知人を訪ねる機会があった。
知人と気安く言うのもおこがましいが、京都で老舗の和菓子屋さんを営む家のご当主で、普
段は名だたる社寺や団体へお菓子を提供し、とはいえ現代美術や最先端の実験料理などへの
造詣も深く、世界的なシェフやブランドとのコラボレーションなどで広く国際的にも活動さ
れている方だ。旧正月ごろには自宅にお招きいただいて食事をご馳走になったりもするのだ
けれど、そういう日は祇園や先斗町の舞妓さん達がこの日だけ仮装して客の家を訪ねること
が許される「お化け」に合わせてあったりして、部外者には普通味わえない体験をさせても
らっている。
京都にその方を訪ねると、祇園あたりのいわゆる一見さんお断りの、そもそも看板も出てい
ないようなお店に連れて行ってくれる。これが京都の「芸人」さんかというような、軽妙で
どこか科があって逆に骨の髄まで京都すぎて少し歪んだ様がまた味なおじいさん(といって
いい年齢のはずの)たちがカウンター越しに三味線と謡を交えた会話で楽しませてくれたり、
名を成し独立した元芸妓さんのお店でその細やかな気配りやトークの抑揚に感じ入ったり、
訪ねる度にいわゆる京都文化の繊細な分厚さにとにかく舌を巻く。
いつも会計はさせてくれないのでお値段は知る由もないが、お安くないことはわかる。その
方も僕などにしょっちゅう訪ねられたらたまらないと思うのでお声がけはできるだけ控える
ようにしているが、おそらくは京都文化の中心にいるその方や周辺の人たちは、京都の「中
の人」のつながりを、日常のこうした奢り奢られ、今日はこちらで明日はあちらでお金を落
とし、少々面倒くさくもあるだろう付き合いを繰り返す中で維持している。
舞妓さんにお金を使うということが、いわゆるキャバクラ的な「いやらしい」行為では決し
てなくて(キャバクラも文化だと言われればその通りだけれど)、そこにはお互いに一定の
質やルールの理解があり、お金を回しあうことでその文化のサイクルを維持していくという
不文律があるように見える。僕はこうした旦那的ハイソサエティ的なもの、蓄積に基づく共
有された意志のようなものを感じるたびに、何か敬虔なものを見たような感慨を(部外者の
勝手ながら)覚えてしまう。閉じた世界、閉鎖的で変化を嫌う世界といえばそれまでかもし
れないが、閉じることで初めて維持できる、圧倒的に高いレベルで共有可能な繊細さの質と
いうものは間違いなくある。
でも、こうした一定の質と理解に基づく属性というのは、京都ほどの洗練と明確な存在感は
伴わないにしても、おそらくは僕らの日常の中にも、インターネットをはじめとする新しい
社会環境の中でその構造や質も変えながら、複数存在はしているのだろう。ただほとんどの
人は、それらに意識的になることは無いままに日常を過ごしているのだろう。資本主義経済
の中で、もしくは民主主義と義務や権利、合理性という名の下に、いつの間にか育まれてし
まった怠惰と安穏に安住するうち、僕らはこういう義務を越えた貢献、プライドと意志に基
づいた選択という感覚を育めないままに、それらが醸造する洗練を、気づかない内に諦めて
しまっているんじゃないか。
法治国家といっても、法律は万能ではない。あくまですべての基礎にあるのは、法律の隙間
を埋める良心であり良徳であり、究極的には明文化しようのない社会に貢献しようとする集
合的な意志であるはずだ。法律に書かれていない限り貢献の義務はないとか見返りのない行
為はしないとか、社会(という実は個人の意志の集合体でしかないもの)が錬金術的に自分
に際限なく権利を付与してくれるとかいった表層的かつ都合のいい理解は、ただただ要求過
多を加速させて社会をギスギスさせるし、何より理屈を超えて「いい」何かに到達する力を
僕らから奪い去ってしまう。
例えば、投票という概念が民主主義の基礎にある。ただし、投票という社会貢献と権利の行
使機会はなにも選挙に限ったことではない。天気がいいからあえて遠回りをして好きな路地
を歩くのも一つの投票=選択だし、少し値段が高くてもあえてサポートしたい販路で商品を
買う、少し不便だけれどもあえて社会の中で維持されるべきと思うしくみを使う、値段が設
定されていなくても価値を感じたものにはチップなり寄付なりを自分なりの額で提供する、
サポートしたい団体の活動に時間を割いて参加するなどの行為、もしくは逆に便利ではあっ
ても、安くても、耳障りがよくてもサポートすべきでないと思う物や機能、業態は使わない
等々、すべては静かではあるけれど、それぞれの価値観と良心に基づく「投票」という一つ
の明確な貢献の行為だ(僕は投票は権利ではなくて貢献の形だと思っている)。良心で制御
しきれないものが法律というルールを必要とするのだとすれば、法律がなくても済む領域、
つまり義務の外にある小さな選択と行為の積み重ねこそが、社会に理屈を超えた質を与えて
くれるはずだ。
このコラムで普段扱うデジタル云々とはまったく対極にあることかもしれないけれど、久ぶ
りに京都の夜を過ごして、翌日の二日酔いの新幹線の中であらためてこんなことを考えてし
まいました。