PC(Political Correctness)が「正論」でなく
なった日
2016.11.22
ArchiFuture's Eye 日建設計 山梨知彦
仕事の合間。スタバでの休憩中に、こんなことを考え、スマートフォンでメモを取ってみた。
■トランプ氏、大統領選に勝つ
政治に疎い僕でも、今回のアメリカ大統領選挙には興味津々であった。
無知丸出しであるが、よそ様の国のことゆえ呑気な傍観者気分で、新聞やSNSに流れる情報
を鵜呑みにして、クリントンが僅差ではあろうものの勝利することを信じ、スマートフォン
で状況をチェックしていた。ところがどうだ、マスメディアの予想やSNS上の噂を翻し、ト
ランプが勝利を納めてしまった。僅か二週間ほど前のことだ。
■PC
PCといっても、パソコンのことではない。ポリティカルコレクトネス(Political
Correctness)、つまり政治的、社会的に中立で正しいこと。少なくとも日本を含む自由主
義社会では、広く現在の「正論」を形作っている根本となる考え方だ。
いろんな見方はあるのだろうが、僕は今回のトランプの勝利は、80年代から培われてきた
ポリティカルコレクトネスという価値観が、アメリカというPCの概念を生み世界の警察とし
てふるまう上でのそれを論拠としてきた国で、「正論」の座から滑り落ちたことを象徴する
出来事ではないかと捉えている。2016年11月7日は、PCが「正論」でなくなった日だ。
■PCが「正論」の座から滑り落ちる
人種差別撤廃や男女平等の実現は、PCにおける典型的な正論であり、その意味でオバマ政権
の誕生はPCの正当な実践であった。そして、それを初の女性大統領となるクリントン政権が
引き継ぐことは、PCを正論とする自由主義社会では、疑いのない正統な予定調和であったは
ずだ。それをトランプ氏は、PCを真っ向から否定する人種差別的、宗教差別的発言を「アメ
リカ・ファースト」、つまりアメリカ第一主義として声高に唱えることで、アメリカの人々
の、特に非エリート層の心を捉え、なんと当選を果たしてしまった。
トランプ氏の当選を、エリート層主導の状況に対する単なる反動的で一時的なポピュリズム、
つまり大衆迎合主義と捉える声もあるが、僕はそうは思っていない。というのも、今になっ
て考えてみると、トランプ氏の勝利、すなわちPCが正論でなくなる予兆は、既に世界各地で
見え始めていたように思えるからだ。代表的なものは、イギリスのEU離脱、「ブレグジット」
であろうか。ハンガリーの国民投票による難民受け入れ拒否や、ビクトル・オルバン首相に
よる国境へのフェンスの設置や、人道的には行き過ぎと思える過激な犯罪者対策で国民の強
い支持を集めるフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領の登場なども思い浮かぶ。
トランプ氏の当選に代表される、PCが「正論」の座から滑り落ちる現象は、PCに辟易とし
た民意が引き金となって、自由主義社会の中で地滑り的に起こりつつある現象であるのかも
しれない。
■「ダメなものは駄目」?
さて、日本ではどうであろうか?
PCの本家アメリカの状況とは裏腹に、少なくとも表面上はPCが依然として「正論」としての
座に収まり、あらゆる議論の根柢の判断基準となっているように見える。
例えば、新国立競技場にまつわる一連の騒動や、小池都知事の当選に至る経緯、就任後の一連
の行動を見ても、PCを正論として、論拠としての行動が展開されている。マスメディアや、
SNSにおいても状況に、PCが正論として飛び交っている。異論が入り込む隙間はほとんどな
い。「ダメなものは駄目」な世界だ。
「ダメなものは駄目」と言ったのは、社会党委員長として選挙戦にて社会党の歴史的大勝利を
導いた土井たか子氏であった(80年代から90年代にかけての彼女の存在自体が、日本におけ
る代表的なPCの具現化であったのかもしれない)が、ひねくれものの僕はこの言葉にちょい
と引っかかる。ゲームはともかく、実社会においてはルールや正論は、絶対的な善悪を固定
的に持つモノではなく、相対的でその基準は常にゆれ動くものであろうとの思いがあるから
だ。「今日のダメかもしれないが、明日の正しいになる」になるのが世の中ではあるまいか?
正論とはむしろ、微妙な判断が必要な事態を選び抜くための「ふるい」のようなもの。その
正論という名のふるいの中で、判断に迷う微妙なモノ選別することがまず重要であり、それ
に対する議論を通して、常に正論を時代にあったものへと見直すことが重要なのではなかろ
うか? こんな考えを持っている僕には、最近のSNSやワイドショーで交わされている議論や
一般市民の声の一部は、本来善悪はひとまず置いて掘り下げて議論をすべき事柄に対して、
PCを盾に乱暴に善悪のみが議論され、事の現実的解決がなおざりにされているように見える。
■「保育園落ちた日本死ね」
こうした過度なPCという正論に対する違和感は、わずかながら日本でも見え始めているよう
だ。たとえば、2016年の流行語大賞にノミネートされている「保育園落ちた日本死ね」と
いうSNS上のコメントなどは、微妙な異分子を「ダメなものは駄目」とPCに即して切り捨て
る動きに対して違和感を覚える人々が日本でも現れてきた代表的な事例といえるかもしれな
い。こんなことをしばし考えていると、ひょっとして、行き過ぎたPCの正論としての位置づ
けが、ときに暴論や閉塞感を生みだし、アメリカをトランプ氏へと向かわせ、PCを正論の座
から引きずり下ろす結果へとつながったのではなかろうか?との邪推が頭をもたげて来た。
PCを正論とする過度な善悪論が、正論を暴言化し、PCを忌み嫌う反動的な動きが日本でも急
速に蔓延しかねないのではなかろうか? 隠れトランプ支持者たちが、アメリカの大統領選で
驚くような結果をもたらしたように、日本でも急速にPCが色褪せ、驚くような事態が起こる
かもしれない。
必要なことは、反動的に極論に走るのではなく、PCを時代に合わせて適切なアップデートす
ること。そしてPCを四角四面で絶対的な運用をするのではなく、むしろ判断に迷う微妙な問
題を抽出するための「ふるい」として持ちいることで、抽出した問題を丁寧に、市井で、
SNSで、メディアで、議会で、あらゆる階層で議論し、時代に合わせた「正論」のバージョ
ンアップを図ることではなかろうか。
■SNSが流布する虚言
ここで話題は急速に変わり、ArchiFuture Webらしい話へとつなげたいと思う。
アメリカ大統領選におけるPCの正論からの失墜と、日本におけるやや行き過ぎの感もある
PCの正論化は、全く対照的な状況なのだが、その中で共通する現象が起きている。SNSやメ
ディアを通じた発言が、多々嘘を含んでいるにもかかわらず、事実のように人々に受け止め
られ、人々の正論に対する判断を狂わせるという現象だ。
虚言のもっともらしい流布というこの現象には、TwitterやfacebookといったSNSの存在が
大きな役割を果たしていることは間違いない。こうしたSNS上に、現代のデマゴーグたちが
流布させた虚言が真実のようにふるまい、一般市民ばかりかマスメディアまでが踊らされる
状況を、僕らはアメリカの大統領選挙においても、そしてArchiFuture Webの読者であれば、
日本のSNSの中でも多々目にされてきたはずだ。嘘は取り除かれなければならない。情報は
その確からしさの情報と併せて、流布されて行かなければならない。
■ファクトチェック
こんな事態に至り、アメリカのマスメディアでは、「ファクトチェック」と呼ばれる、大統
領候補たちの発言を、嘘か根拠がある事実か確認して報じる手法が登場した。Webニュース
の一部もすぐさまこの動きを追いかけ始めた。
日本でも早晩、ファクトチェックはマスメディアの重要な役割となるだろう。願わくば、人
工知能などの助けを借りることで、SNSなどに流布する様々な発言、情報にもファクトチェッ
クがなされ、コメント客観性が点数化されるなどが実現されることを期待している。そうな
れば、SNSは虚言による扇動の場から、事実と客観性に基づく、議論の場へとバージョンアッ
プが図れるはずだ。
もっとも、PCと同様に、過度な虚言管理が、正論の暴論化を招かざるを得ないので、注意が
必要であろうが(笑)。