機械にリスペクトはできるか
2018.04.24
ArchiFuture's Eye ノイズ 豊田啓介
昨日、腐れ縁の先輩である東京R不動産の林厚見さんと飲んでいたときだ。ふと「人ってさ、
結構リスペクトされたら幸せなんだよ」という言葉が林さんから漏れてきた。
リスペクト(尊敬)をすること。それはもちろん歴史上の偉人に対してもできるし、友人に対
してもできる。身近な肉親を尊敬するという感覚は、年齢を重ね経験を積むほどに自然と湧い
てくるものだったりもする。
そんな伝統的な、お堅いところでなくてもいい。ヒップホップの世界にも○○をリスペクトみ
たいな話はよく出てくるし、メジャーリーグでも敵の素晴らしいプレーに対してリスペクトの
ジェスチャーを見ることはよくある。利便性や個々の損得を超えたところで、人はどこかに何
かをリスペクト「したがる」存在のようだ。当然ながら、リスペクト「されたい」という話は
よく聞く。誰かに必要とされるという感覚は、人の尊厳の維持に必須の栄養素だというのはま
あ一般的な理解だろう。ただそれと同時に、もしくはそれ以上に、リスペクト「する」気持ち
を持つこともまた、もしかしたら「される」ことよりも、人の尊厳を高く保つ上で重要である
ように見える。
例えば最近だと、ビジネスの世界にリスペクトスターが多い。ちょうどFacebookのマーク・
ザッカーバーグが諸々リスペクトポイントを乱高下させているが、やはりイーロン・マスクを、
スティーブ・ジョブズを、もっと古い方なら松下幸之助をリスペクトするというビジネスマン
はとても多い。ビジネスマンにとっては、誰をリスペクトするかということ自体、ある程度自
分のスタンスやアイデンティティの確立、自らどう見られたいかというタグ付けに役立ってい
るようだ。
おそらくそうした世界では自分の、そうありたいそう見られたいという未来像に重ね合わせて
いるのだろう。ただ、もっと身近かつ素朴なリスペクトも沢山ある。手作りにこだわる鞄屋さ
んや近所で有機材料にこだわり続ける豆腐屋さん、朝の交差点でいつも笑顔で子供に挨拶をし
てくれる近所の交通安全ボランティアなど、もっと身近な、小さなリスペクトの対象はいくら
でもある。いわゆる人情にかかわる世界である必然性もなくて、たとえばゲーム開発者やゲー
ム音楽のクリエーター、声優にコスプレイヤーの世界にも、たくさんのリスペクトの相互供給
のマーケットが生まれている。リスペクトは、一つの経済原理らしい。
例えば他の条件がそう変わらないなら、よりリスペクトのある豆腐屋さんから豆腐を買いたい
と思うものだし、その企業の姿勢に、材料の選択方法に、デザインセンスに何らかのリスペク
トを感じるかどうかの差異は、ある程度その他の評価が近接しているかぎりにおいては、相応
の経済指標を覆すに足る一定の勾配を与えている(さすがに新車のメルセデスと中古のシビッ
クくらいの差をリスペクトだけで覆すのは容易ではないが)。贔屓と言ってしまうと顔見知り
である等もう少し違う要素も入ってくるが、知識や純粋な理念として生じ得る、実空間や社会
性の近接性に寄らないという意味で、「リスペクト」はやはり異なる類の概念であるように見
える。いずれにしても、固定的な原理や因果関係に落としようのない何らかのリスペクト的要
素が、この市場の中で一定の選択圧力要素になっていることは間違いがない。
さて、一体機械にこのリスペクトという概念は持ち得るのだろうか。AIといっても機械である。
最近何かとマジックワードのように繰り返される深層学習も、そこで扱われるのは極論すれば
原因と結果の間にある我々には見えない因果関係の処理である。一方リスペクトという概念は、
何らかの形で個々の「人生」のような、圧縮不可能な情報の経時的蓄積を経ずには生じ得ない
もののように見える。さてそれは、そうした全過程の積分的圧縮すら持たないインプットとア
ウトプットによる因果関係の学習のみから生成可能な類のものなのだろうか(いくら計算によ
るその組み合わせと領域の探索能力が破壊的になったとはいえ)。
そもそもリスペクトを持つということで、一体我々人間はどのような報酬を受けているのだろ
う。進化論的に、リスペクトという感覚は関係する個体にどう優位に作用するのだろうか。あ
あ、俺この人リスペクトだわという感覚を抱くことは、何かしらの幸福感であり充足の感覚で
もありそうだし、ポジティブな未来への具体的なビジョンや可能性の提示、何かの約束の形な
のかもしれない。もしかしたら個体への利益ではなく、所属する集団への利益となって、その
結果個体にも利益が返ってくるような、社会性を前提とした高度なメタ利益の形なのかもしれ
ない。そうなると、ある程度AIにも扱える可能性がでてくるような気もしないでもない。
深層学習は人間には認識できない何らかの複合的な関係性を学習し、そこに一定の結果をコン
トロール可能な形で描出する。しかしそれでも、彼らに学習できるインプットの情報量、蓄積
量は、現実世界の情報に比べれば整数と無理数との比くらいには限定的だと言える。さまざま
な意識・無意識を圧倒的に異なるスケールや構造、強度の中から調整し、「リスペクト」とい
うかたちで特定の対象に投影するということは、一体機械(この場合特にAIなるもの)に可能
になる類のものなのだろうか。仮にそうなった場合でも、おそらくは機械にとってのリスペク
トは人間の認知するそれと互換性のあるものではない可能性は高いし、そもそも我々が、機械
のその感情(傾向)に名前を付け、一定の特性としてそこに価値を認識することが可能かどう
かさえ定かではない。いずれにしても、そのリスペクトという概念を何らかの形で共有できな
い限り人と機会が共生する社会というものが、我々に意味と価値を与えるかたちでは機能しそ
うにないし、今のところそんな存在を、AIという便利な言葉の中に安易に投影すべきではない
ように見える。
こう考えてくると、我々が持つ「リスペクトできる」という特性、それが生み出すエネルギー
は、我々が思うよりはるかにとんでもない価値のようだ。もっとこの特殊能力を使い倒さない
とだ。