知性の在り処
2015.09.10
ArchiFuture's Eye 慶應義塾大学 池田靖史
年のせいとは思いたくないが、残念ながら知人の名前が思い出せないことが結構ある。そんな
時は自分のパソコンのメーラーに関係するキーワードで検索して事なきを得ている。また、
打ち合わせの最中に以前にも別な案件で同様のアイデアで提案した事を思い出し、その場でパ
ソコンの過去データを検索することも多い。
ふと思うと他人から見て私の知的活動と見えることのかなりの部分はパソコン内のメモリーに
頼っていて、そのメモリーが消失すると私という人間の知的能力はどう見えるのだろうかと思
う。予定表や住所録などは安全なクラウドに置けば消えないかもしれないし、ハードを持ち運
ばなくても便利だが、ますます私の思考はある程度外在化し、既に「電波の届かないところ」
では何も考えられない、話せない人間なのかもしれない。
もはや疑問に思った事や、ちょっと知りたいと思った事をインターネットで検索しない人はい
ないだろう。あらゆる情報にアクセスできている訳ではないかもしれないが、少なくとも一般
人が困らないレベルであれば、ほとんどの事象や物事の情報について瞬時に得る事ができるか
ら、初めての旅行先について同行者に偉そうに講釈したりできる一方、食事中の会話でワイン
についての蘊蓄がいい加減だと、すぐにスマホで調べられ否定されて恥をかくこともある。も
ちろん情報収集能力は人間の知的生産能力のポイントの一つと考えられ、これまでにも手帳や
備忘録、図書館の利用はあったのだから初めは不自然にも感じなかったのだが、いつの間にか
大容量のデータを瞬時に検索できるパワーを手にして、それが自分自身の思考と一体となり、
自分の「思考」の境界を見失っているような不安も覚えるのである。もはや情報のアクセシビ
リティでは優劣がない以上、昔のように知識の量で知的能力を誇る事はあり得ない。だから自
然の流れでその情報の組み合わせによる解釈や創発的な異化によって能力を示さなくてはなら
ない。
ここのところのデザインの「パクリ」問題と共に浮上して来たのは、現代社会に既に広く存在
していたこうした知的活動の外在的共有化の影響に対する我々自身の無自覚だったとも思える。
ジェネレイティブデザインと呼ばれる方法では、条件に合う形態をコンピューターにたくさん
自動生成させて、そこから人間が発想を得てデザインに発展させると考えられている。いわば
コンピューターと協働した知的財産である。しかしこれは生物の形態や自然地形などの生態的
システムの現象から発想を得て人工物デザインすることと本質的には変わらないとも言える。
インターネット上に次々とデータマイニングされて出てくる情報の総体も、そのソフトウエア
の生成物かもしれない。
デザインにおける模倣がどこまで許されるのか法律的な議論では可否があるかもしれないが、
法律は人間が社会的な安定を図るために自分で律したルールである。その社会そのものの構造
的変質には必ずしもついていけない。自己と他者の知的境界が曖昧になりつつあることに我々
はどのように対処すべきなのだろうか。