ICT革命がもたらす、新しい集住の形式「集住3.0」について
2020.02.04
ArchiFuture's Eye 日建設計 山梨知彦
■変曲点
振り返ってみると、2019年は、僕自身にとっては「変曲点」とでも言えるような年であった。
都市や建築やICTに対する自らの視点が大きく変わった一年だった。
先ず、「桐朋学園大学調布キャンパス1号館」(写真1)で、二度目の日本建築学会賞(作品)を
受賞できたこと。これまで長くツールとして使ってきたBIMなどのICTを、設計をサポートす
る技術から、デザインに直結する建築それ自体を生成するものとして使うことで、新しい「自
然な感じ=ナチュラル」を生み出すことを狙った「コンピュテーショナル」なアプローチを試
みたプロジェクトで、国内で最も権威のある建築賞の一つを受賞できたことは、僕の人生に
とって大きな意味を持つイベントであった。
2つ目は、これまで30年以上にわたり建築設計の実務で培ってきたものを、2つのアート的な
展示を検討する機会をいただき、その内の一つを「ルーズなインターフェイス」として現在、
森美術館で開催された「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命――人は明日どう生きるの
か 森美術館、2019~20年」に出展させていただいたこと(動画 “クリックするとYouTubeへ
リンクします” )。アート作品として手ごたえを感じられるものにするには未だ経験が不足した
が、そこで考えた建築と都市との関係は、今後の僕の実務としてのモノづくりに新しい視座を
与えてくれたような気がしている。
さらには、2つの本を執筆する機会をいただき、その内の1つが2月26日に「切るか、つなぐか?
建築にまつわる僕の悩み」(TOTO建築叢書)として出版されることになった(もう一方は、な
ぜ大型の都市建築が嫌われモノになったかについて考えてみた本となる予定)。これまでも何
冊かの本を出す機会をいただいてきたが、ソフトウエアの使い方であったり、BIMなどの技術
の解説書であったりと、いわば建築設計に関わるノウハウの領域に留まるものであった。だが
今回の2冊は、不慣れでぎこちなく、こなれていなくて深みにかけるものかもしれないが、建築、
特に大型の都市建築について、設計者の一人としての「考え」を記した、僕にとっては新しい
領域の作業であった。
加えて、昨年は地球温暖化の仕業と目される台風や大雨による、もはや自然災害とも言えない
ものに日本各地が度々見舞われることを経験した。残念なことであるが、僕自身が設計監理を
担当させていただいた建物もいくつか被災してしまった。人間の存在や活動が、地球の気候を
変化させ、それがまさに身近な危機として迫り来る状況を肌で感じた一年であった。
申し訳ないのは、それらに没頭しすぎて、この「ArchiFuture Web」のコラムの執筆が全く進
まなかったこと。今年は新たな情報のインプットを心掛け、その整理の場としてこのコラムの
場を積極的に使っていきたいと考えている。
■都市、大型建築、ICT
改めて今、2019年の3つの作業を俯瞰してみると、そこでの共通のテーマとなっているのは、
現在は「都市」と呼ばれている人類の集住の場と、それを構成する「大型建築」についてと、
それらの限界とその限界を乗り越えるべく如何に「ICT」を使うべきか、といったものである
ことに気が付いた。
まとまりのない話で恐縮だが、2020年最初のコラムは、2019年の変曲点を経験した結果、都
市や建築やICTに対する視点が大きく変わった僕が現時点で抱いている「夢物語」を開陳した
いと思う。僕の建築的初夢とでもいった内容なので、話半分として受け止めていただき、読ん
でいただければ幸いです。
■地球と都市と人新世
先ず都市についていえば、そこで扱われる情報やモノや人間自体が膨大なものとなり、人々は
それに対抗するため様々な技術を生み出し、生きながらえてきた。いやもう少し正確に言えば、
人類が偶然としか見えないほどの多くの試みの中から生まれた一握りの技術が、これまた偶然
にしか見えないほどに多くの試みの中に生じたほんの僅かな応用により、人類は生きながらえ
て来ることができたと言った方が良いのかもしれない。いずれにせよ問題は、昨年の重苦しい
災害の経験を思い出すまでもなく、我々が生きながらえるために生産するモノやアクティビ
ティは、今や極めて大きなインパクトを放つものとなってしまったことだ。そのインパクトは、
我々ホモサピエンスという種を存続させるに必要不可欠な場である地球自体に大きな影響を与
えかねない状況となっている。人類の進歩が、かけがえのない地球の環境を人類が住めないも
のへと変えてしまい、人類は進歩することで滅亡へと向かい、その一方で人類が滅亡するよう
な環境となっても、地球は存続し続けるという、自己矛盾に満ちた状況に至りつつあるわけだ。
現代とは、こうしたシニカルな意味においても、まさに「人新世」と呼ぶにふさわしい時代と
なったように思う。
■集住3.0
もちろん、人類は人新世の中で地球と共存しうる絶妙なバランスを取りうることに成功する可
能性もあるだろう。大ヒットした「ホモサピエンス全史」によれば、都市は我々人類にとって
最初から存在した居住形式であったわけではないと言っている。7万年前の認知革命により人
類は集住をはじめ、5000年前の数理革命により都市や大型建築が生まれたとされている。情
報革命が人類の住み方やそれに必要な装置をバージョンアップすることにより、現在の都市が
生まれたわけである。そして今、ビジネスの世界ではDX(デジタルトランスフォーメーション)
と呼ばれる、ICTによる非常に大きな変革が起こっている。これが仮に真の情報革命であるな
らば、この革命に沿うように、人類の集住の在りかたも大きく変わる可能性がある。併せて人
間の集住に密接なかかわりを持つモビリティが、これまたICTの発展により生まれた自動運転
技術により大変革をもたらす可能性がそこに重なっているのが現在の状況である。
7万年前に認知革命がもたらした集住の始まりを「集住1.0」と名付けたとすれば、5000年前
の数理革命が生んだ都市は「集住2.0」と呼びうるかもしれない。そして今、DXやICT革命が
「集住3.0」とでも呼ぶにふさわしい、人類の新しい集住の在り方を探り、地球に不要なイン
パクトを与えることなく共存が図れる新しい集住の形式を発明すべき時が訪れているのでは
なかろうか。僕はそんな夢を見ている。
■集住3.0とミラーワールド
集住1.0においては、集落という集住形式が即物的に目で見え、認識できる規模でかたちづく
られていたと言えそうだ。これに対して、集住2.0においては、数値という抽象概念で認識で
きる規模と複雑さの中で、都市という概念と規模がかたちづくられたと言えるのではなかろう
か。そして集住3.0においては、IoTなどの技術を通して獲得された膨大な情報の総体がかたち
づくる「デジタルツイン」や「ミラーワールド」と呼ばれつつあるものを通して、コンピュー
ターのアシストを受けつつ、リアルタイムに認識される莫大な情報の中で、新しい集住の在り
方が求められるものとなるのではなかろうか。
■偶然にしか見えない膨大な試みを行う意味
実は、人類がこれにふさわしい住まい方や、建築の在り方を発明したときに、ホモサピエンス
は地球との新しい共存の在り方を打ち出し、人類もまたバージョンアップされ、人新世はポジ
ティブなものとなり、人類は存続を実現し、集住3.0が現実のものとなり、その結果、ICT革命
は人類の新たな情報革命であったと位置づけられるのだろう。全ては一蓮托生のものなのだ。
そしてその革命は、全体としては偶然にしか見えないほどの、個々の人間の莫大な数の試みの
結果、生まれるのだ。とすると、僕らに託されているのは、一見無駄に見えても、革命を起こ
すべく膨大な試みを繰り返すことにあるのではなかろうか。この一年を通じて、こんな考え方
をするようになった。