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コラム

ビッグデータとスモールデータの間から

2020.03.24

パラメトリック・ボイス            木内建築計画事務所 木内俊克

前回のコラムも、東京大学にて担当してきたNTT都市開発・新建築社との共同研究、都市空間
生態学に関連して、ジェイコブズの都市論とその応用的な解釈について書いた。今回はその流
れで、ぜひ3月5日に実施予定であった同研究のシンポジウムについての報告をと考えていたが、
昨今の新型コロナウィルスの状況を鑑みた感染防止対応としてシンポジウムの開催自体が延期
となってしまい、残念ながら報告は6月以降まで持ち越しというかたちとなった。

そこで筆者としては記事の流れに想定外の穴が開いてしまったわけだが、空いてしまったら空
いてしまったなりに、実施予定だったシンポジウムに接続しつつ、これまで共同研究の枠内で
考えてきたことを、いかに研究の外側につなげるのかについて、ざっくばらんにメモをつくっ
てみたいと考えた。

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ビッグデータとスモールデータ
都市の情報を取り扱う、ということの最初の大きな分岐点にこのビッグかとスモールかという
問いが必ず、そして思いの外重要な問いとして立ち上がる、ということがこの5年間の研究で
体感的に理解した重要なことだった。ArchiFuture Webのコラムでも公共空間と情報の所在と
いう軸で延々書いてきたわけだがそのこととこのビグとスモルもかなり深い関係にある。
ビッグはわかりやすい。都市空間生態学をはじめたときも、まずは当たり前のようにオープン
データとしてアクセスできる都市を量におきかえて表現した既存システム上で入手できるビッ
グデータに手をのばし、マクロなスケールの挙動として把握できる定量的な傾向の抽出に取り
組むことからはじめた。しかし、ビッグデータのふるまいからは、どうしても実際に都市を経
験する際の機微が抜け落ちているように感じられるのが常で、いま一つデータの向こうに見え
てくる人は、高層ビルから見下ろした風景のような遠い距離にいる人の群としてしか見えてこ
ない感覚になる。むしろビッグデータの傾向の中ではノイズに見えてしまう異常値の発生要因
の中に、誰かがある場所を経験した際にその誰かに印象を与えた都市の都市らしさがつまって
いるのではないかというような感覚、と言い換えてもよいかもしれない。
そして実際、必要性にかられて市場には出回っていないデータを自らの手で計測するという段
階にいたると、特に計測して得られるローデータの中には、途端に見過ごすことのできない体
験的な機微が随所に溢れ出したスモールデータが立ち現れる。それは一般化を拒んでさえいる
ような一回性をもったデータに見えるときもある、厄介なデータでもあったりするわけだが、
その分、なぜ特定のケースにおけるそのスモールデータがそのようなふるまいに至ったのかを
考えさせるに十分な密実さを持っていることもしばしばある、ということになる。
公共空間と情報の所在に関わる議論で繰り返し言及してきた、「情報がいかにネットワーク的
に立ち現れ都市のイメージを形成するか」という問題に照らして考えれば、ビッグデータ抜き
にしてはネットワークの広がりが見えてこないということになるし、「情報がネットワークの
末端で個人の体験にささる強度をもつか」という問題に照らせば、今度はスモールデータのも
つノイズや一回性さえ含むかもしれない機微を抜きにしては、具体的に情報が人の感覚に波及
していくふるまいが見えてこない、ということにもなる。

往々にして、ビッグデータは定量的なアプローチを、スモールデータは定性的なアプローチを
取り扱うことに重心があることが傾向としてはあるように思うが、別の言い方をすれば、定量
的、定性的な分析をまったくハイブリッドせずに読み下せる情報もほぼ存在せず、定量/定性
の二者、ビッグ/スモールの二者の融合という課題抜きにしては、情報における都市、都市に
おける情報を取り扱えない、ということが言えるのではと感じている。

そして厄介なのはやはりスモールデータで、その不規則性に価値をおきながら、どう取り扱い
を体系立てることができるか、トレーサビリティを保つのか、といったところがどうやらやは
り勝負所なのだろう。都市開発におけるデータの利活用となれば、なおさらそこが無視できな
いということになるはずだ。
行間をたっぷりと含んだテキストデータ、冗長な機微を幾重にも含み込んだ映像データなど、
興味深くハードルの高いスモールデータは、総体としてはビッグデータとして今も大量に存在
している。それをビッグデータ的な言葉で非構造化データとくくり、深層学習的なアプローチ
にかけてみることも一つの糸口かもしれないが、必ずしもそこだけではくみきれない、スモー
ルにはスモール特有のよりウェットな視座、たとえばデザインシンキングが取り扱う定性かつ
統合(分析の反対語としての統合)的アプローチなどをビッグデータ的なアプローチにいかに
融合していけるかを、やはり愚直に考える必要があるというのが、当面のヒントだと感じる。

アクセシビリティ
既にビッグとスモールの話だけでも結構な量になってしまったのでここからは駆け足でのメモ
にとどめるが、一方でデータへのアクセシビリティということも、情報と都市開発という観点
からは落とせないことを強く感じている。
どんなに有用な情報でも、人に入ってくる手続きが重すぎて遅すぎれば、情報はやはり鮮度と
価値を失う。この議論も、どちらかというと前者のビッグとスモールという区分けでいけばス
モールデータ的なマターかもしれず、集計され単純化された量的な情報は伝達に困難が伴わな
いことが多いと思われるが、やはり映像を見るのには時間がかかり、テキストを読むのには時
間がかかるように、非構造的な機微をたたみ込んだデータへのアクセシビリティをどう高めう
るのかは、インタフェースの問題も含みつつ、データ利活用の上で非常に大きな問題を含んで
いる。

スケーラビリティ
ここでいうスケーラビリティは、ビッグとスモールの問題ではなく、データ分析や統合の手続
きが、街区レベルの都市構成に適用できる一連のものが発見できたとして、それをいかにス
ケール方向で横滑りさせ、たとえばより巨大な都市間の都市ネットワーク構成の理解に水平展
開できるか、あるいは大規模建築の低層階の構成の問題としてスケールシフトできるか、と
いった意味でのスケーラビリティだ。
都市における情報を取り扱う上で、縦横無尽とまではいかずとも、いくつかのスケールを行き
来する自由度を最低限可能にしないことには、対象の把握はかなりの困難さを増す。いかにし
てスケールの横断が可能になるかは、常に意識すべき問題の一つとして存在しているように思
う。
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以上、すき間回なりにこれまでの作業の中での気付きを横断的にメモ化をしてみたが、やって
みるとこういった整理は案外重要かもしれない。ではどこにどんな白羽の矢を立てて、情報と
都市の問題に切り込んでいくか。大学での研究が一区切りつくいま、あらためて次回あたり、
今後の方針を仕切り直してみようか。

    「都市空間生態学研究の2015年度シンポジウム/展示ポスター」
     ©東京大学建築学専攻Advanced Design Studies

    「都市空間生態学研究の2015年度シンポジウム/展示ポスター」
     ©東京大学建築学専攻Advanced Design Studies

木内 俊克 氏

木内建築計画事務所 主宰