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コラム

丸柱NGのホンダ

2021.09.22

ArchiFuture's Eye               ARX建築研究所 松家 克

ドアを開けながらバカヤロー!」竣工直前の現場会議室で、それは始まった。八重洲にあっ
た本田事務所から宗一郎氏が現場に向かいましたとの電話があり、模型を会議室に運びホンダ
の役員と小生のボスの椎名政夫氏と私を含めた担当者2人など5人でウキウキしながら到着を
心待ちしていた1~2週間前の雨にも拘らずにさち夫人と現場に来られ火災や地震に対し世
界一安全な建築だと激賞。ご機嫌なご様子だった。ところが、冒頭の始まりである。ドアを開
けながら口角泡を飛ばす勢いで怒鳴りながら椅子に腰掛けられた。開口一番、「入口の丸い二
本柱は何だ!神殿や銀行ではないぞ!ホンダは。俺は、権威が大っ嫌いだ。神殿のパンテオン
の柱、銀行の柱、鳥居など権威の象徴が“丸い柱”だ。ホンダの入口の柱が、その丸い柱にな
ている考え直せ!しかし丸く加工された最終仕上げの金属板は全て完成し取付寸前だ
た。
本田氏は怒りだすと目の前の物を投げるもし始まったらそっと目前の物を片付けて欲しい。
それと名前と顔が一致しないとその人を怒ることはない、とも聞いていた。併せ答える時は、
「それについては検討を加え後日ご報告いたします」と伝えて欲しいとのレクチャ
を受けていたちょうど私の目の前に本田さんが座られていたが、小生は怒られないだろうと
高を括っていた。しかし、模型を見ながら小生を見据えて、車のことは俺の方が詳しいよな。
そうだろう。(はい。)その俺がこの車の出口の形状は危険だなあ~。と考えるが、どうか
君は、(松家と呼ばれたか、お前と言ったか、何と呼ばれたか覚えていない)どう思うと話
しかけられた時には膝頭がガタガタと震えた怒られ慣れているはずの役員の方々も声が裏返
り、「車のアプローチと柱については検討し後日ご報告いたします。」と少し甲高い声で答え
られていたが、小生も口内が乾き裏返った声で「それについては・・・。」と甲高く答えたの
を鮮明に覚えている。
その時の最高顧問、本田宗一郎氏の真っ赤なネクタイを今でも忘れられない。隣室ではホンダ
計画室と私達設計室の関係者が耳を欹てて成り行きを聞いていたと後で教えられた。蕎麦屋の
岡持や人が通る際に角をぶつけない様に設計しました、などと若い松家が説得しないと、とホ
ンダ側計画室のメンバーから叱責されたが後の祭りであった。竣工迄、およそ3か月前の
1985年、36年前の午後だった。
後日に知るのだが、本田宗一郎氏は、バイク前輪のフロントサスペンションを一時的に四角に
したと聞いた。丸型には相当な抵抗感があったようだ(早く言ってよ~)。結局のところ2本
の丸柱は、写真のように丸い部分の対角を削ぎ落とした小判に近い型に修正。車のアプローチ
は再度説明し了解を得た。これも後日談であるが、設計中は絶対に2本の柱を無くすことは不
可能だと言っていた構造設計者が、大きな拘りだったとすれば、2階の柱と梁の工夫で1階の
柱を無くすことも出来たかも知れないと聞いた。
 
話は変わるが、ホンダ青山本社の定礎板文字を本田氏に依頼し墨筆で書いて頂いた。その原紙
を宝物として今も持っている。逝去された時にホンダから借りたいとの依頼があり、6万2千
名を超える来場者があったお礼の会「ありがとう!」で本田氏の繊細で優しい水彩画と共に額
に入れられ飾られた。違和感はあったが、しみじみと改めて柔らかに書かれた筆体をじっくり
と見たことを思い出す。パリ出張の帰りにお礼の会には出席した。二人三脚でホンダを支えた
藤沢氏の葬儀際の本田氏の打ち拉がれた様子を思い出し、この会で、本田氏の足跡を辿りなが
ら感極まったことを覚えている。
逝去の2日前、さち夫人に「自分を背負って歩いてくれ・」と伝え、夫人は宗一郎氏を背負い
病室の中を歩いた。そして「素晴らしい人生、満足だった。」の言葉を遺した、という。
本田氏の引退の切っ掛けに成ったともいわれる水冷か空冷か問題で本田宗一郎と大喧嘩を繰り
広げ、出社を拒否したエンジニアは、後の社長の久米是志氏である。丸柱NGと合せ、拘りと
潔さを感じる。氏の名言は数多くあるが、中でも「失敗が人間を成長させると、私は考えてい
る。」が一番好きだ。
 
前述のホンダ青山本社ビルはデジタル化・情報化対応ビルの2,3歩先を目指しまだ初期の
ころのPOSシステムも備え統合オフスシステムを構築R&Dを模索しながら計画された。
当時としてはIBM多機能端末の5550や将来対応の光ファイバーの予備の大容量回線も備
えた先進的なこのHONDA本社が1985年の夏に無事竣工。
本社計画には、河島氏、久米氏、川本氏と3代に亘る社長と多くのホンダの方々の計画への意
気込みと参加意識があった。計画時からデジタル化の萌芽がみられ、竣工後、加速度的にパー
ソナルコンピューター(PC)や今のBIMに繋がるCADの風が吹き始めオフィス環境変革の
嵐となった。
1987年に建設省のインテリジェントアワード賞受賞。2013年に大規模リニューアルを
終えJIA25年賞を受賞。2020年には、1階のウエルカムプラザがリニューアル。新た
な本社機能として再構築され更なる将来を見据えている。
余談だが、小生は、偶然にも本田氏の長男で無限の創業者の本田博俊氏に、ディテール誌の取
材でお会いしている。無限のF1エンジンのチューニング工場を博俊氏の説明で見学。F1の
エンジンを内部構造までつぶさに見せて頂いた。残念なことに写真撮影はNGで、もし写真が
あれば高額で売れますよとの冗談も交えて案内して頂いた丁寧な説明と食事もご一緒出来、
緊張感と共にフランクな時を持てたと記憶している。
 
最後に、ホンダは、昭和21年晩夏に浜松市の焼野原でバラックから始まった。内部にベルト掛
けの古旋盤、外部に工作機が約10台並び、入口には本田技術研究所の看板が掲げられ、社長以
下12、3名の従業員が忙しく働いていたという。今では、およそ25万人の従業員数でオート
バイ売上世界一、“HONDA Jet”を生産するホンダ エアクラフト カンパニーなどグルー
プ会社415社売上高14兆9310億円の日本を代表する誇らしい世界企業となっている。
竣工の年は、小生がデジタル化に踏み出す第1歩の年でもあった。

     竣工当時のエントランスの2本の柱 撮影:川澄明男

     竣工当時のエントランスの2本の柱 撮影:川澄明男


           東宮御所方向から 撮影:川澄明男

           東宮御所方向から 撮影:川澄明男

松家 克 氏

ARX建築研究所 代表