コンピュテーショナル・デザインにおける
連続性と離散性~その3~
2023.01.19
パラメトリック・ボイス
コンピュテーショナルデザインスタジオATLV 杉原 聡今回は建築物やプロジェクトに見られる連続性と離散性について記す。これらの建築物は必ず
しもコンピュテーショナルデザインによって設計されたものではないが、設計の仕組みを設計
するコンピュテーショナルデザインの観点から、建築物における連続性と離散性の組合せや種
類を見ていく。
単一の連続性と離散性
ひとつの連続性または離散性からなる建築物を考えるとき、単純に考えれば建築物がひとつの
要素で構成されている印象を持ち、その要素が曲面のような連続的形状からなるものが単一の
連続性、そうでないものが単一の離散性のように思われる。前者の例として、バックミンス
ター・フラーのジオデシック・ドームでマンハッタンを覆うプロジェクト(1960年)や、グレッ
グ・リンのエンブリオロジカル・ハウス(1997–2001年)、後者の例としてギザの大ピラミッ
ド(紀元前2500年頃)、アルド・ロッシのサン・カタルド墓地(1971年)が考えられる。しかし
連続性と離散性を、複数の要素間の関係性の問題として考え、要素間に関係性があることを連
続性と呼び、関係性が無いことまたは各要素の自律性などのために関係性が希薄であることを
離散性と呼ぶのであれば、単一の連続性、離散性というのは定義できないとも言える。
連続的要素による連続性
構成要素が曲面のような連続的形状を持ち、なおかつそれらの要素が互いに滑らかに、または
強い関連性を持って全体が構成されているようなものを連続的要素による連続性と呼ぶとする
と、ザハ・ハディド建築事務所によるトルコ・イスタンブールのカルタル地区都市計
画(2006年)や、デイヴィッド・ルイとカレル・クラインによるインスタレーション
Klex(2008年)(図1)が例として挙げられる。なお、このインスタレーションの意図は連続性や
複雑性にあるのではなく、デイヴィッド・ルイの同窓である哲学者グレアム・ハーマンが提唱
するオブジェクト指向存在論をインスピレーションとし、事物(オブジェクト)の多義性、語
り尽くせなさの表現にある。
離散的要素による連続性
構成要素が自律性の高い自身の形状を保持しつつも、全体を構成するときに要素間に強い関係
性が表れて、大局的には全体が一つの連続体を構成するようなものを離散的要素による連続性
と呼ぶとすると、組積造のブロックが滑らかにつながらずに各々の形状を保持したまま大きな
曲面を構成するチューリッヒ工科大学ブロック研究グループによるヴェネチア・ビエンナーレ
でのインスタレーション、アルマジロ・ヴォールト(2016年)や、直方体の石碑が高さを変えな
がら波打つ大きな面を構成するピーター・アイゼンマンによるホロコースト記念
碑(1997年)(図2)が例として挙げられる。
連続的要素による離散性
構成要素が連続的形状を持ち、それらが全体を構成するときに必ずしも要素間に強い関係性を
持たず、自律的に距離を取ったり、衝突・交差して全体が一つの連続体には集約されないよう
なものを連続的要素による離散性と呼ぶとすると、複数の連続的曲面要素が各々自律的に距離
を置いたり重なったりしつつ緩やかに建物を覆うフランク・ゲーリーによるルイ・ヴィトン財
団美術館(2014年)や、線状/円形/ランドスケープなど異なる形状の要素が自律的に展開して衝
突・交差するモーフォシス建築事務所による上海浦東カルチャーパーク・
コンペ案(2003年)(図3)が例として挙げられる。なお、筆者の元上司でもあるモーフォシス建
築事務所のトム・メインは古くは90年代の台湾台北のASEデザインセンター(1996年)から、
近年は書籍「Strange Networks」に記される形態の研究(2010年)や寧波湾芸術文化公園パビ
リオン案(2021年)まで、線状/筒状/球状/波打つ面状の各々自律的要素が衝突・交差して多様
な建築空間を生む設計手法を追求し続けている。
離散的要素による半連続性
自律性の高い自身の形状を保持する離散的構成要素が、大局的には連続的な全体の形状を構成
しつつも、要素の自律性が全体に回収されきらず強く主張が残るようなものを離散的要素によ
る半連続性と呼ぶとすると、金門港ターミナル・コンペティション案(2014年)のように、強
い特徴を持つ構成要素群が連続的な曲面に覆われつつも、曲面が構成要素に吸い付いてその形
状を強く表す部分と、緩やかに被さり曲面の連続性が表される部分をそれぞれ制御するトム・
ウィスコムの設計手法(図4)がその例として挙げられる。
離散的要素による離散性
他の要素を無視するかのような各々の位置や向きで、自律性の高い自身の形状を持つ離散的構
成要素が、集積のような規則性の希薄な方法で全体を構成するようなものを離散的要素による
離散性と呼ぶとすると、ピーター・トラマーによる、都市の建物を一箇所に寄せ集めたかのよ
うな都市デザイン案、パイル・シティー・ウィーン(2013年)や、マーク・フォスター・
ゲージによる、デジタル素材のリサイクルと称してインターネット上で収集した様々な3Dオブ
ジェクトの集積で設計されたヘルシンキ・グッゲンハイム美術館コンペティ
ション案(2014年)(図5)がその例に挙げられる。
以上は形や幾何学に関する連続性と離散性であったが、連続性・離散性が構成要素間の関係の
問題であるとすると、以下のような素材、色、歴史的、文化的、意味論的な関係性による連続
性・離散性も考えられる。
様式的連続性と離散性
形が多様で離散的であっても、素材、色、様式が統一されている、または強い関係性を持つの
であれば、その側面での連続性が読み取られ、また形が連続的であっても素材、色、様式が離
散的であるケースも考えられる。前者の例として、ベルナール・チュミによる多様な形態を持
ちつつも赤い色で統一され、また配置もグリッドを用いた連続性が見られるラ・ヴィレット公
園のフォリー(1982年)が挙げられる。後者の例として、全体は10階建て直方体のボリューム
に収まりつつも既存の都市に呼応するかのような多様な色と素材によるファサードに包まれた、
MVRDVによるサイロダム(2003年)(図6)が挙げられる。
歴史的連続性と離散性
既存の歴史的建物や、敷地の過去との関係性を強く主張するようなものを歴史的連続性と
して呼ぶことができる。そのような建築物の例として、19世紀末に建てられその後焼失した砦
のような兵器庫と呼ばれる大学施設を参照して、類似した建物形状要素の形態操作により設計
されたピーター・アイゼンマン設計のウェクスナー芸術センター(1983年)や、既存の発電所の
外壁を残して内部・上空・地下に文化センターとして機能する空間が埋め込まれたカイシャ・
フォーラム(2003年)(図7)、同じく発電所の外壁や煙突を残して改修されたテート・モダ
ン(1995年)が挙げられる。また、スクラップ&ビルドが繰り返される現代都市によく見られ
る、敷地の過去と無関係または断絶的に建てられるようなものには歴史的離散性あると言える。
ただし、歴史的に連続であることが倫理的であり離散的なものは非倫理的であるとは限らず、
連続的であれ離散的であれ、無自覚に設計・建設されるものは非倫理的であるかもしれないが、
倫理的またはある対象に対して価値のあるものであるための正しい姿勢は今後とも議論を要す
る問題であると筆者は考える。
文化的連続性と離散性
歴史的連続性・離散性に通ずるところもあるが、地域の文化に対して強い関係性を表明する
ものは文化的に連続であると言える。現代建築的な形態の抽象化はなされているが、敷地周辺
地域の景観を想起させる形態を持ち、地域の素材と工法を用いて建てられた王澍による富陽区
の黄公望美術館(2017年)(図8)や批判的地域主義的建築物の多くはその例に挙げられる。文化
的連続性は過去の歴史的な文化との連続に限らないため、凡庸さとも見受けられる近現代の一
般大衆文化要素を慎み深く抽象的に表しているかのようなMOSアーキテクトの
ハウスNo.10(2019年)は、現代人の暮らす環境と文化的に連続であると言えるかもしれない。
また敷地地域には根ざしていないが、インターネットにあふれるデータを収集した結果、現代
のグローバルな大衆デジタル文化が表されている前述のマーク・フォスター・ゲージによるヘ
ルシンキ・グッゲンハイム美術館コンペ案(図5)は現代文化との、または建物の構成要素間の
文化的連続性が見られる。また一方、地域の文化または同時代的文化を無視または断絶したも
のは文化的離散性があると言える。隈研吾氏によるM2(1990年)や、先月残念ながら他界され
た磯崎新氏によるつくばセンタービル(1979年)に代表されるポストモダン建築には一見そのよ
うな文化的離散性が見られるものの、前述のグレアム・ハーマンの哲学が時代背景にありつつ、
オブジェクトに注視するヒメネス・ライやアンドリュー・コバックなどのポストモダン建築リ
バイバルと呼べそうな潮流を踏まえて、ネガティブな面だけでなく未来へつながるポジティブ
な面にも光を当てた、過去の特に日本のポストモダン建築の再評価が新たになされることを筆
者は個人的に期待している。
意味論的連続性と離散性
構成要素の間の、物理的に観測される形態・色・素材など統語論的関係性でなく、それらの外
にある意味論的関係性による連続性というのも考えることができる。例えば、
ジョン・ヘイダックの「犠牲者」と題されたベルリンのメモリアルパーク・コンペティショ
ン案(1984年)(図9)では、敷地に点在する建築要素であるパビリオンが擬人的に架空の人物ま
たは演者のように意味づけされ、それらのシーケンスや空間での関係性(と何十年もかけて
一つずつどのパビリオンをどの順番で建てるかを市民が決める過程)から悲劇と追悼の物語ま
たは演劇が立ち現れる。一方、構成要素の間に意味を極力持たせないことは意味論的離散性を
高めていると言えるが、前述のマーク・フォスター・ゲージによるヘルシンキ・グッゲンハイ
ム美術館の解説において、要素に意図や象徴的意味合いを持たせないために3Dオブジェクトは
ランダムに収集されたと述べられているように、意味を持たせないことにより逆に別の側面の
統一性を持たせるような場合もある。
以上、連続性と離散性をテーマにそれらの種類を建築物やプロジェクトを例に出しながら述べ
たが、後半は、歴史性、文化性、意味論など現在のコンピュテーショナルデザインでは計算対
象としてほとんど扱われない領域に踏み込んでしまった。しかしコンピュテーションが、建築
では取り組まれるこれらの領域を扱えない訳ではなく、コンピュテーショナルデザインで用い
られるコンピュテーション技術と用いられ方が未熟であるために今はまだ困難であると筆者は
考える。ニューラルネット・ベースの人工知能のブラックボックス内に、人間のためではない
統語論と意味論の体系のようなものが生まれつつある中、現在のコンピュテーションには困難
な領域が、今後の技術発展と手法の進歩で扱えるようになり、コンピュテーショナルデザイン
の新たな地平が開かれることを大いに期待する。