髙木、PERFECT DAYSを観る
2024.04.18
パラメトリック・ボイス 髙木秀太事務所 髙木秀太
PERFECT DAYSを観に行ってきた
春が近づいた週末、映画「PERFECT DAYS(監督:ヴィム・ヴェンダース、'23)」を観てき
た。日比谷シャンテ。夕方の回だったけど満席。さすがは話題の映画って感じだけど、僕も見
事に感化されてしまった。一言で言うと「とても面白かった」って感想。今回の僕のコラムは「PERFECT DAYS」の感想戦。もう観た人は一緒に語り合いましょう。まだ観ていない人も
大丈夫、多少のネタバレを含むけれど、むしろこれを読んで劇場に足を運ばれたし(という
か、この映画はテーマ的にネタバレもなにもないんだけど)。
都市を、あるいは、建築を語る映画だった
あらすじの紹介は以下、公式サイトから引用。
東京・渋谷でトイレ清掃員として働く平山(役所広司)は、静かに淡々とした日々を生きてい た。同じ時間に目覚め、同じように支度をし、同じように働いた。その毎日は同じことの繰り 返しに見えるかもしれないが、同じ日は1日としてなく、男は毎日を新しい日として生きてい た。その生き方は美しくすらあった。男は木々を愛していた。木々がつくる木漏れ日に目を細 めた。そんな男の日々に思いがけない出来事がおきる。それが男の過去を小さく揺らした。 |
回る。僕たちがよく知っている建築家センセイ達が設計したユニークな公共トイレを1つ1つ
丁寧に丹念に清掃していくことが、彼の仕事なのだ。その日常を描くだけ。そんな映画。これ
だけでも十分、都市的・建築的だけど、この映画の(僕にとっての)本質はもっと深淵な部分
にある。トイレ清掃の日常を通じて「都市」と「個人」の関係性を禅問答のように問いかけて
くるのだ。変化のない日常を生きる平山。孤独を愛する彼だけど「清掃」という行為そのもの
が都市の人々の暮らしに欠かせない行為なので、結局は彼も「都市の一員」であることを意識
させられる。黙々とトイレ清掃をこなしていく平山を観てると、ある種都市に対する祈りのよ
うな神聖な行為にも見えてくるから不思議だ。
ヴェンダースが切り取った「東京」という都市の風景も掛け値なしに魅力的だった。オレンジ
色の朝日とスカイツリーのシルエット、アスファルトを打ち付ける冷たい雨と隅田川の波、や
さしい夕日に照らされる桜橋と自転車、ステンレスの庇に反射した公園のカラフルな景色、そ
して、(劇中でことさら強調される)都市の中だからこそ存在を意識出来る小さな『木漏れ
日』たち。平山が日常の風景から感じている小さな喜びに共感できる。すべてが美しく愛おし
い。そんな、小さな美しい風景は、都市に生きる誰にでも等しく存在する。都市を計画する僕
らはこんなにも大切なセカイのデザイン(の一端)を任されているのか、と思うとすこし誇らし
くなる。
ヒトにとって、ルーティンとはなにか
ところで、この映画には一切の「デジタル」が出てこない。なんと映画そのものの画面のアス
ペクト比が4:3(=ブラウン管テレビの画面比と同じ)というこだわりぶりで、平山が徹底的
にデジタル世代から取り残された男として強調されている。コンピューターももちろん出てこ
ない(スマホはギリギリ出てくる。平山の持ち物ではないけど)。
だけど、僕はこんな映画に対してもデジタルな要素を結びつけて考えてしまう(職業病か
も)。平山の変わらない日常、毎日の繰り返し、、、「ルーティン」。
映画本編には当然こんな単語は出てこないんだけど、実は映画のパンフレットにはこの「ルー
ティン」という単語がはっきりと出てくる(この劇場パンフレットはすばらしいクオリティな
ので是非購入されたし)。平山の日々をそう表現している。そういう単語を使わないとあらす
じを端的に説明できないからだと思う。この単語はコンピューターのジャンルでもよく使われ
る単語で、まさに「必ず発生する機械的な繰り返しの手順、処理」として用いられる。最近で
は「朝のルーティン」や「運動のルーティン」というような使い方で僕らの日常にもよく現れ
るようになったけど、元はと言えば工学的な用語だ。だけど、僕はこの映画を見て思ったんだ、
都市の中で生きている人間にとって「ルーティン」なんて言葉は本当は存在しないのかも知れ
ないと。環境も身体もどれだけ同じ繰り返しを求めても、小さな変化は日々生じるもの。まさ
に『木漏れ日』のように毎日の表情を変える。劇中、徹底した「ルーティン」を続ける平山も、
都市で生きているからこその小さな事件に何度か見舞われる。そこで生じるこれまた小さな喜
怒哀楽が彼を魅力的な「人間」たらしめるのだ。「繰り返しだけど、文字通りの繰り返しでは
ない。厳密な意味での繰り返しの日々など存在しない。そして、それが都市のなかで生きる僕
らのささやかな、だけど、とてもとても大切な幸福へと直結しているんだ」というメッセージ
を僕は受け取った。そう、僕らはコンピューターにはなれない。結局、この辺が僕らとコン
ピューターの決定的な差のようにも感じる。
僕たちは都市で生きている
エンドロールが流れて映画館を出たあと、いっしょに観劇した知人と都営三田線で日比谷から
神保町へ移動した。ザ・トーキョーって感じの町中華で夕食を食べた。腹ごなしに水道橋まで
散歩して、沢山の感想を言い合った。普段より少し、東京の街が美しく愛おしく思えた。僕た
ちは都市で生きている。小さな幸福や美しい風景は僕らの身の回りのそこかしこに隠れている。
ハレとケは二項対立ではない。都市のハレは都市のケのなかにこそ見いだせる。都市のルー
ティンのなかで小さな変化を愛でよう。それが、めまいがしてしまうような猛スピードで変化
する現代を生きる僕たちの、健やかであるための生存戦略になりえると思えたんだ。