撹拌{して/されて}みる
2024.10.01
パラメトリック・ボイス 竹中工務店 / 東京大学 石澤 宰
いまから8年ほど前に旅したミャンマーのヤンゴンで代表的な麺料理のひとつが「モヒンガー」
です。いくつか種類がありますが、私が好きだったのはナマズで出汁を取ったスープのもの。
日本人的には聞き慣れないので一瞬驚きますが、優しい味で食べやすく、滞在中は毎朝いろい
ろな店を食べ歩いていました。
ちなみにミャンマーの公用語はビルマ語ですが、文字には円を基調としたビルマ文字を使いま
す。ビルマ語の数字はアラビア数字と違うため、バスの行き先表示や駅の時刻表などがビルマ
語になっていると、知らない人にはどこが数字かもわかりません。日本の五円玉には漢数字し
か書いていないので額面が読めなかった、と以前部下だったタイ人が言っていましたが、その
時の気持ちがなんだか身にしみてわかった瞬間でした。
コロナ禍の3年ほどが徐々に過去のものになり、国内にはますます外国からの訪問者が増えて
きました。海外出張の機会が多くなった方もいらっしゃると思います。私も6月にひさびさに
ヨーロッパへの出張がありましたが、現地でSIMのローミングが当たり前のようにでき、遠距
離移動のチケットがモバイルでいとも簡単に購入でき、両替した紙幣など本当に一度も使わず
帰ってきてしまい、ここ数年のさまざまな改善にしみじみと関心していました。
しかしもう一方で思い出すこともあります。今年で第3号となる建築情報学会白書が先日いよ
いよ発行されました(特集 第一部はどなたでもお読みいただけますのでこちらから是非!)。
その第二部に、Bjarke Ingels GroupのBIM Managerに行ったインタビューがあり、その中の
一場面です。
❝2014年から2018年までの期間を振り返ると、私たちのツールキットはほぼ毎年大きな変
更を余儀なくされました。――しかし、BEAMとRhino-insideの導入により、ワークフロー
を効率化し、多くのツールへの依存を減らすことができ、――わずかなツールで多くのこと
を達成できるようになりました。
(Leenknegt J. (2024). ‘BIM at BIG’. in 建築情報学会 編. ‘建築情報学会白書2023-2024’,
建築情報学会. p.46)
BIMの界隈では確かに、新技術は毎年のように登場してくるものの、黎明期から拡張期に比べ
るとワークフローは徐々に収束し、安定する方向へ向かい始めたようにも思われます。しかし、
地図のない領域で様々な未知の現象と出会うような探索の感覚を与える領域としては、BIMや
コンピュテーショナルデザインの熱はある程度おさまってきたという見方もできるかもしれま
せん。
「イノベーションは加速する」「近年のイノベーションは加速度的である」という表現は実は
疑ってかかったほうがよい、と言われます。蒸気機関の発明、送電網の整備、自動車の普及は
社会のありようを一気に変えてきたが、それに比べると例えば、10年前のスマートフォンと現
在ではそれらと肩を並べるほどに大きな違いがあるのだろうか、とも思い始めます。
❝2010年代の人々は「人間にはとてつもなくすごいことができる」とばかり語っていた。
けれども実際には感染症ひとつ制御できなかったし、それどころか社会不安すら制御できな
かった。ぼくたちはその現実にきちんと向かいあわなくてはいけない。―― 大きな物語に世
界中が熱狂した多幸症の時代だった。コロナ禍とウクライナ戦争を経た2023年から振り返る
と、それはまるで、冬の到来のまえの小春日和の日々のようである。
(東浩紀 (2023). ‘訂正可能性の哲学 (ゲンロン叢書) ’. ゲンロン. pp.139~142.)
発明やイノベーションが「発明家」によってなされた時代が過去にはありました。今は徐々に
それが企業によるものになり、さらにその資金を提供する政府やより大きな団体のもとで行わ
れる形も生まれました。そうすると、ある限られた予算を課題ごとに割り振る形が生まれます。
私が現在、研究室として応募している科研費などはまさにそれであり、そうした機会があるか
らこそ推進できる研究は確実にあります。しかし、そのように徐々に官僚化したイノベーショ
ンにブレイクスルーは訪れなくなりつつあるのではないか、という問いがあり、「The End of
Innovation」などと呼ばれることがあるようです。
仕組みが出来上がること、それにより安定的な運用ができるようになることにより、多くの人
が利用できる状況が整い、また様々なコストが下がります。それにより技術は特別なものでは
なくなり、やがてはそれ単体を意識することがなくなるまでに日常化します。
そのような大きな仕組みの中で、新しい小さな動きが生まれ、次につながる。そうした発明の
種はおそらく対話のなかから生まれる。対話によって撹拌された様々な情報や経験や、その他
さまざまな要素が泡のように生まれては消え、そのなかのいくつかは大きな泡に育つ。そんな
ようなものかもしれません。
私達のコンピュータや人工知能に対する期待は、それらが人間のように振る舞う日が来る、と
いうことだった側面があります。そして技術は確実にその方向に進化してきました。
一方で、私達が「必要としているもの」は、私達ひとりひとりが得意でない部分で頼りになる
パートナーのようなもので、それは人間らしいかどうかより、私達のよりよいくらしに資する
かどうかによって様々な形を取り得ます。アレクサが人型でなくても特に問題ないようなもの
でしょうか(私の娘はAmazon Echoのことを「アレクサのおうち」と呼んでいた時期があり
ますが)。
私達には自己内多様性(intra-personal diversity)があり、また脳や神経由来のさまざまな特
性(neurodiversity)が個々人にあるとわかった現在、すべての人に同じことが言える保証は
もはやありません。しかし概して、
❝ほとんどの人が、世界は実際よりも怖く、暴力的で、残酷だと考えている
(ハンス・ロスリング, et al. (2019). 'FACTFULNESS'. 日経BP. p.16)
のであり、
❝人は「本当に自分のためになる物事」を把握するのがとても下手だということを理解して
おいたほうがいい
(ロバート・ウォールディンガー. (2023). ‘グッド・ライフ’, &books. 辰巳出版. p.27)
のであるようです。私達自身が苦手なことをそう理解すること、というもの自体簡単ではあり
ません。そういう苦手克服のために機械を使い、人と人とはもっとたくさんの会話をする。何
やら当たり前すぎてがっかりされそうな話ですが、そのような当たり前が当たり前でありつづ
けるためのデザインができたら、と思います。
冒頭のモヒンガー、ナマズの出汁と聞くとちょっと驚きますが、それ以外は米粉の麺に豆の天
ぷら、玉ねぎに刻みネギなど、私達も一度はお目にかかったことのあるものです。今回はなん
だか書籍の引用がだいぶ多くなりましたが、最後にもう一つ。
❝栄養を摂取するための食べ物は地球上あらゆるところで同じようなものが選ばれ、発酵を
含む風味によって気候や風土、保存性などの必要性に応じたバリエーションが登場してきた
―― これはロマンではないか。
(ドミンゴ. (2022). 'ニュー・ダイエット 食いしん坊の大冒険'. 木星社. pp.80-81)
斬新に見えてたいていの要素は共通している、ということも多いものです。冒頭のビルマ語も、
数字を0から9まで覚えてしまえば電車もバスも格段に使いやすくなりました。親しみがなく
てわからないように見えても、ある程度までわかれば意外となんとかなる。そういえば知らな
い土地を旅するごとに、そういう感覚をもつ瞬間がある気がします。