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BIMにおける協議と規範
2026.05.26
パラメトリック・ボイス 芝浦工業大学 志手一哉
言葉は残り、意味は変容する
日本の建築産業には、海外から優れた概念を輸入する際、言葉のラベルはそのままに、中身か
ら日本の商慣習に合う部分を抽出して再構成する特異な「翻訳」能力がある。例えば、請負者
が工事契約前からプロジェクトに関わることの総称であるECI(Early Contractor
Involvement)、工程計算の結果であるクリティカル・パス(Critical Path)などは、その言
葉が元の文脈から切り離され、言葉のイメージだけが日本という異なる土壌に移植された代表
例である。これらは現場で、看板は同じでも中身が異なる「日本語」として使われている。
BIMにおいても同様の事態がよく起こる。CDE(Common Data Environment:共通データ
環境)や各要素のLODを記述するMET(Model Element Table)といった略語が、本来の情報
マネジメントの文脈を離れ、部分を取り出して効率化の文脈へと読み替えられているように思
われる。日本人は古来、外来の文化を「行事」として取り入れ、その本質的な教義を問わずに
混在させ、社会へ馴染ませることに長けていた。この文化的な柔軟さは、既存の秩序を壊さず
に新技術を導入するには有効だったかもしれないが、情報の国際的な互換性が求められるBIM
時代においては、障壁になりかねない。
「空気」による協議か、「規範」による解釈か
日本人はとかく「雰囲気」でものごとを進めがちな傾向がある。一方で、西洋は、確固たる
「規範(Norm)」に基づいてものごとを律する。この差は、日本人と西洋人の宗教観や倫理
観の根底にある違いと言ってもよい。
工事標準請負契約約款を見てもわかるように、日本のプロジェクトは、思いのほか「協議」と
いう名の空気感によって成立している。何か問題が起きればその都度、関係者が協議をして現
場の最適解を阿吽の呼吸で導き出す。この調整能力自体は目を見張るものがある。しかし、そ
の結論は常に「その場限り」の文脈に依存しがちなので、普遍的な知見としての再現性を欠い
てしまう。
これに対して、規範に従う欧米の場合、迷ったときに誰かの顔色を窺うのではなく、立ち戻る
べき規範に回帰し、そこから論理性のある解釈をする。この、個人の判断を超越した「聖域」
があるかどうかが、判断の質と透明性を決定づける。BIMの世界において、その中心に据えら
れるべき世界共通の規範こそが、ISO 19650シリーズである。EU諸国においてBIMの社会実
装が揺るぎないのは、このISO 19650シリーズを規範として共有し、迷った際の立ち戻り先を
明確にしているからに他ならない。
ローマで感じた「規範」の力
先日、イタリア・ローマの設計コンサルタント本社を訪ね、BIMに関するヒアリングを行った。
イタリアでは2020年代から公共事業におけるBIMが段階的に義務化されており、彼らが指針
としているのは、ISO 19650をイタリアの建設業界の土壌に合わせてローカライズしたガイド
ラインであった。
感銘を受けたのは、そのCDEワークフローの的確な運用である。
例えば、公共プロジェクトで定められているCDEで一元管理されたデータが、消防等の公的審
査プロセスでどう扱われるか、という点である。審査中のデータには厳格なアクセス制限がか
かり、関係者であっても勝手な修正は許されない。そして審査をパスした確定データのみが
「パブリッシュ(公開済)」というステータスを与えられ、専用の領域に保管される。この
一連の情報ライフサイクルがデジタル上で厳格に管理されている。
CDEの本質は、プロジェクト関係者間で「唯一の真実(Single Source of Truth)」を共有す
ることにある。そのため、ガイドラインではIFCやPDFといった汎用的なファイルフォーマット
の使用が義務付けられ、ファイル命名規則や情報受け渡しのルールはEIR(発注者情報要件)
やBEP(BIM実行計画書)によって事前に定義される。
「EU圏の他国と協業する際に、BIMの作法で困ることはないか」という私の問いに対し、彼ら
は「全くない」と即答した。ガイドラインが違えど、拠り所とする「文脈(ISO 19650)」が
共通していれば、迷ったときに戻るべき場所は最初から決まっているからだ。
「効率化」という空虚な旗印への違和感
日本とイタリアにおけるBIMの普及状況は、表面的には似通っている。ガイドラインは整備さ
れ、大企業には広まっており、BIM図面による確認申請が実施され、中小企業への普及が課題
である。だが、その根底にある思想は決定的に異なっているのではないか。
日本のBIM推進の場では、常に「効率化」や「メリット」が語られる。「BIMを導入して何の
得があるのか」という問いに対し、即物的な報酬を提示しなければならないという強迫観念の
ような「空気」が支配している。国土交通省によるガイドライン等も整備されつつあるが、そ
れらが真に拠り所とする「不動の規範」が産業全体で共有されているとは言い難い。信じるべ
き規範を持たぬまま、目先の効率ばかりを一途に追求すれば、結局は独自解釈された略語や
ツール依存のワークフローが一人歩きを始める。そしてプロジェクトのたびに、データの連携
や共有の方法を巡って、延々と「協議」を繰り返すことになる。規範のない世界では、誰もが
自分の正義を主張し、足並みが揃うことはない。
前提を共有するということ
関戸氏は以前のコラム『日本のBIM vs「空気の研究」』で、BIMにおける情報連携の不備が組
織のあり方に影響を及ぼしている点を鋭く突いた。外部の基準と内部の規律を結びつける仕組
みの欠如を危惧するその視点は、極めて本質的である。イタリアでの調査を経て、筆者はその
問いに対する一つの「返答」を得た。
BIMという、建物情報をデジタル化してマネジメントする一連の思想は、ISO 19650シリーズ
を教典とした一つの「信仰」と言い換えてもいい。BIMを導入する以上、その教典が規範であ
ることをまず受け入れ、理解しなくてはならない。そこにはIFCのような共通の「作法」があ
り、その作法を正しく習得した者たちの間では、データ連携や共有に関する困りごとは生じな
い。つまり、「BIMを導入するなら、まずその規範と作法を学ばなければならない」というこ
とに尽きる。
規範を持つべきか、何を規範にすべきかといった議論は、もはや誰かが恣意的に決めるような
段階ではない。BIMを信じる以上、BIMとはそういうものだと、プレイヤーの誰もが理解すれ
ばよいだけのことである。そして、日本のBIMワークフローを規定する各種のガイドライン類
も、目先の利便性に阿(おもね)ることなく、この国際的な規範に対して誠実に、そして厳格
に改定されていくべきであろう。
ISO 19650シリーズ発行以降のBIMが我々に突きつけているのは、ソフトウェアの操作習得で
はない。「我々は何を前提として合意を形成しているのか」という、産業の足場の再構築であ
る。協議によって成立してきた日本の建設文化が、規範を前提とするデジタル・ワークフロー
を内在化できるのか。それは単なる用語の導入ではなく、文脈そのものの転換を意味する。立
ち戻るべき規範を持たないままでは、どれほど技術を磨いたところで、同じ場所を堂々巡りす
ることになる。BIMは今、その構造的な課題を、冷徹なまでに可視化しているのである。
注釈
ウィーン協定においては、ISO の議論を経て策定された ISO 規格はそのまま欧州規格(EN 規
格)となる。さらに、EU加盟国には、EN 規格を自国の国家規格として採用することが義務付
けられている。そのため、ISO 19650シリーズ は、国別附属書(National Annex)による調
整が許容されているものの、そのまま翻訳されて EU加盟国の国家規格となる。


























