安楽椅子探偵の三現主義
2016.11.08
パラメトリック・ボイス NTTファシリティーズ 松岡辰郎
ミステリ(推理小説)に「安楽椅子探偵」というジャンルがある。明確な定義があるわけでは
ないようだが、自らは現場に赴かず事件を推理する探偵と、そのような傾向の作品をさす。直
接捜査に関わらず、助手や知り合いといった情報提供者や、新聞等のメディアから得られる情
報のみで推理し、事件を解決に導くという趣向である。
これまで数多くの個性的な安楽椅子探偵が創造されたが、その中の代表的な一人がバロネス・
オルツィによる「隅の老人」だろう。本名や職業は不明。エイアレイテッド・ブレッド・カン
パニーのノーフォーク街支店、通称「ABCショップ」の隅の席に座り、チーズケーキと牛乳を
注文しては向かいの席に座る新聞記者のポリー・バートンに、世の中を騒がせている事件につ
いて自身の推理を聞かせる。
彼の主な情報源は新聞のようだが、必要とあらば傍聴のために審問に赴くこともあるようだ。
安楽椅子から全く立ち上がらない、ということでもないらしい。それでも警察の捜査に加わる
ことはないので、事件そのものに直接関わっているわけではないということになる。
細かい話はともかく、安楽椅子探偵は一般的に得られた情報のみで分析・判断・推論を行って
いる。フィクションの世界ならではのご都合主義はあるとしても、手元のデータを処理するこ
とで的を射た評価・分析やシミュレーションを行い、真相というゴールにたどり着く方法を示
している点が興味深い。
安楽椅子探偵が安楽椅子探偵でいられるのは、遠隔でのデータ取得を可能とする手段と、デー
タを活用して問題解決を可能とする手順を持っているからである。建築設計や施設運営に関わ
る諸問題を、データによって把握し解決に至る方法を考える身としては、現代の安楽椅子探偵
を気取ることができる情報環境が実現すべきものの一つであると考えている。
一方、他の製造分野と同様に建築分野においても、「現場に行き、現物を見て、現実を捉える」
の三現主義が重要であることは言うまでもない。
実際に存在する建築を対象とする上で三現主義は否定されるべくもない。それでも建築の情報
化を追求し続けなければならない理由はどこにあるのだろう。
生産工程における様々な問題は、おそらくほとんどが建設の場で発生する。しかし現実はすで
に現場で問題が発生するまで猶予を与えてはくれず、現物で問題が発生する前にそれらを発見
し、解決することを求めている。これがフロントローディングの重要性を認識させ、BIMの普
及拡大の一因となった。現場も現物も現実もまだ存在しない状態で、問題を発見し解決するた
めには、仮想の世界でこれらを行わなくてはならない。
そこで、これを仮想三現主義と名付けてみる。「仮想現場で、仮想現物を見て、仮想現実を捉
える」ということである。仮想現物はBIMモデル、仮想現実はVR(そのままだ)で現すこと
ができそうである。では仮想現場はどうだろう。現場という言葉を辞書で引いてみると、「物
事が現在行われている、または行われた、その場所」とある。となると、仮想のプロセス検討
やシミュレーションということになるだろうか。BIMによる建物モデルが、VRや各種のシミュ
レーションにより、3D-BIMから7D-BIMまで十分に活用できる技術と環境が整えば、三現主義
は仮想化できると考えてよいかもしれない。
それでは、実際の建物が存在する場合はどうだろう。これは建設工事の途中から竣工後の運営・
維持管理工程の話となる。すでに現物としての建築が存在するので、現場で現物を見て現実を
捉えることができる。それでもなお、建築の情報化の手を緩めることはできそうにない。理由
のひとつとして、社会の複雑化に伴う建築の役割の多面化や、それに伴う必要情報量の増大が
あげられる。現代では従来の物理的な機能に加え、性能や社会的機能、事業資産や経営リソー
スとしての役割等、建築を捉えるべき視点が多様化多角化している。そして解決すべき問題の
複雑化とともに、扱うべき情報も増え続けている。現場で得られる情報にさらに多くの情報を
付加し、拡張していく必要があることから、これを拡張三現主義と捉えてみる。
拡張三現主義は「拡張現場で、拡張現物を見て、拡張現実を捉える」ということになる。拡張
現実はAR(これもそのままなのでイメージしやすい)で実現できるとして、拡張現物はどのよ
うに実現すればよいのだろう。こちらは建築の様々な視点からの情報をBIMモデルに付加して
いく、という方法を取ることができそうだ。従来の建築情報の範囲や構成を再考する必要があ
るかもしれない。拡張現場はARを活用し、現場で得られる情報だけでなく、その場で得ること
が困難な情報も利用できる情報環境と言うことになるだろう。
近年、必ずしも現場に常駐しない建築の情報化推進者という職能が重要になってきている。彼
らはこれからの建築分野において、安楽椅子探偵と呼ばれる存在になっていくのではないだろ
うか。
これからの安楽椅子探偵は、仮想空間と拡張空間を行き来しながら颯爽と問題解決を図る存在
でありたい。そのためには仮想三現主義や拡張三現主義を体現する、実体の情報化手法やデー
タ取得ツール、場所を問わないコミュニケーション手段のさらなる進化が必要となる。結局は
BIM、VR/AR、IoT、ICTといった情報活用手法をどのように融合・連携していくかが課題、
と言うことになるようだ。勿論、業務プロセスにおいて三現主義との良好な関係を構築するか
も重要だろう。
一方で自分が安楽椅子探偵になることを考えず、安楽椅子探偵の役割を果たす優秀なエージェ
ントAIの実現を目指すという未来もある。その場合、人間はどのような役割を担うべきなのだ
ろう?