「イノベーションの街」の秘密
2017.01.31
ArchiFuture's Eye 慶應義塾大学 池田靖史
カナダのウォータールーという小都市はまだそれほど知られていないと思う。かくいう私自身
も縁あって現地にあるウォータールー大学を実際に訪問するまで、トロントの近くにある大学
都市ということぐらいしか知らなかった。しかしこの人口わずか20万人の小都市が、この
10年ほどでシリコンバレーに次ぐITイノベーション企業の集積地として世界中から注目を集
めている。ここではいろいろな数字をあげて説明することは避けるが、とにかく「スタート
アップ」と呼ばれる技術革新による新規の起業の数とその成功例は飛び抜けた実績であり、
続々とイノベーション起業家が産まれている特別な場所であることに疑いはない。IT系先進技
術イノベーションを新規ビジネスに結びつけて地域や経済の活性化することは昨今のお題目と
してよく聞くが、実際に成果を上げている場所はそれほど多い訳ではないことから、誰もが
「何故ウォータールーが?」という同じ疑問に辿り着くことになる。もちろん理由は一つでは
ないのだが、真似ができるかどうかは別にして実に示唆的な事実がそこにはある気がする。
組織として中心的な役割を果たしているのは間違いなくウォータールー大学であるが、その歴
史もそれほど古くはない。60年前に理工系に特化して設立され、その時点から現在まで続く
「コーオップ」という半年ごとにインターンと授業を繰り返しながら進める独特の学部教育シ
ステムが確立されているのは、教育効果と地域の産業振興を強く意識していたからだろう。こ
の方法が就業への高い評価につながり、結果的にカナダだけでなく世界中から優秀な学生を集
める好循環を産んでいったことが基礎体力になっている。優秀でしかも産業展開の意識が高い
学生がたくさんいれば、その若い才能とエネルギーを求めて、Googleのような一流のハイテク
企業が近づいて来て、国策的な支援も受けやすくなり、結果として産学連携の研究も活発にな
る。
さらにそこでベンチャー起業支援のためにとられたユニークな方針が「知的所有権は大学では
なく発明者のもの」という明確な方針で、実際に大学の施設と企業の支援でされた研究から産
まれた特許で、独立することが当然のように行われている。それどころか研究者が個人として
特許取得することを大学が経費を負担して支援し、後に収入があった場合にのみ回収するとい
う制度すらある。研究成果をスピンオフして起業したい研究者にとっては天国のような条件な
ので、今度は優秀な研究者を呼び込むことになる。するとそれをさらに拡大して大学院生だけ
でなく学部生にまで研究成果による起業を驚異的な積極さで推進し、学生同士が自主的につ
くったチームに無償で場所を貸し、ビジネスや法務などの実務アドバイザーによる指導から、
投資家へのプレゼンテーションの機会づくりまで手取り足取り手伝ってあげる制度を整備して、
とにかく技術イノベーションの産業化への動機付けをまるで布教活動のように続けてきた。だ
から学生たちは勉強しながら常にスピンオフのチャンスを意識しているし、留学生の中にはそ
もそもそのためにこの大学に来た者も少なくない。人口20万の都市に5万人の学生がいるの
で、街全体に活気が満ちてくるのも当然かもしれない。
ここまでの話だと単に大学の先見性のある経営方針が目を見張る効果をあげた、ということに
なってしまうのだが、私の見たところ本質はもう少し違うところにある。もちろん大学の果た
している役割は大きく、その支援の内容も商業化へ向けやる気のある学生や研究者なら羨まし
いばかりである。しかしそれを単純に真似してもこの街で起きている地域ぐるみのベンチャー
起業活動を他の場所で達成できるとはどうも思えない。なぜなら当然ながらこうした起業のす
べてが成功を納める訳ではないし、一時的に成功したとしても厳しい競争に晒されることも覚
悟しなければならないからだ。つまり失敗するリスクをとり、ある程度は険しい人生を楽しめ
る強固な「起業家精神」が支援とは別に必要だが、例えば日本のような社会ではそうした気質
が社会における個人の美徳であるとはとられないことも多く、仮に経済的に成功した場合にも
批判に晒される覚悟すら必要だからである。
日本にも産官学連携研究と呼ばれるものがあって自治体などが政策的に地域内の産業界と学術
機関を協働させ、その成果が地域経済にも還元されることを期待するフレームがない訳ではな
い。しかし多くの場合ここでいう「官」とは自治体行政機関のことであって、市民コミュニ
ティのことではない。その一方で、交流のしやすい規模のウォータールーに既に起業し成功を
果たした先人達や、海外の第一線企業から派遣されて来て新人たちのアイデアの動向を見守っ
ている人々、投資やビジネスに関わる金融系の人々などが小さくまとまって、優秀な学生たち
に期待し、イノベーションの持つ可能性を信じて彼らを鼓舞し続けるコミュニティの応援団こ
そが、他の地域にない特別な要素のように思える。
実際に若い学生たちに聞いてみると、何も経済的な成功が第一で起業を目指している訳ではな
く、社会的な貢献や自己実現といった精神的な充足が起業の先にあり、失敗したとしてもその
努力は尊重されるべきだというコミュニティ全体の価値観に支えられて、安心して夢のある挑
戦に身を投じている。そしてコミュニティは実際にその精神のもとに助け合い、その重要な媒
体としての大学に期待している。
この地域におけるベンチャー起業の成功例の最も象徴的な存在であるスマートフォンの草分け
ブラックベリーは、かつての独走状態をiPhoneに取って代わられた物語ばかりが喧伝されてい
るが、共同創業者のひとりマイク・ラザリディスは既に経営からは離れたものの、その間に得
た巨万の富を現役時代から積極的に大学に寄付していて、いまも地元の名士として非常に尊敬
されている。彼の寄付とイニシアチブによって大学に新しく設立されたのが量子コンピュー
ターとナノテクノロジーの研究センターで、贅沢すぎると思えるほどの施設に一流の研究者を
惹き付け、ここからも新たなベンチャーを産むことを積極的に推奨している。つまりイノベー
ションを新規開拓できる可能性の高い先進的な分野に利益を還元して、巨額の設備に依存する
研究成果を惜しみなく若い後進達に持ち去らせているのである。
さらには理論物理学の研究所を設立してトップクラスの数学的頭脳を集め、通常なら産業技術
移転に関心はない彼らにもベンチャー起業へ動機付けすることで、他では簡単に真似のできな
い根源的に革新的な技術分野が創出される可能性に賭けてすらいて、自らの見識をもとにコミュ
ニティの未来に向けて見返りを求めない投資をする姿勢が、経済的な成功者である以上に彼の
評価を高めている。そしてマイク・ラザリディスがどんなに成功してもブラックベリー本社を
この地域から動かさなかったことをお手本に、起業家達は地域に留まり、ウォータールー大学
の学生を採用して大学との関係を保つことを有意義かつ誇らしいこととして特別にこだわって
いる。
イノベーション・スタートアップと呼ばれるベンチャー起業とその先にある新事業の拡大の効
用として雇用の創出がいわれるが、はたして本当にそうだろうか。こうした新しい企業ならで
きるだけ人工的な方法で労働生産性を高めるだろうし、退屈で将来に夢の持てない仕事が増え
るのではなく、創造的で発展性のある仕事の拡大こそが目的だとすれば、雇用の量ではなく質
が高まらなければならない。それには、学問と技術の前進が社会的な価値を創造できるという
精神の共有が前提になる。是非はあるかもしれないが、ウォータールーのコミュニティではイ
ノベーションによる社会的な幸福の実現と言う価値観が様々な立場で共有されてきたのではな
いだろうか。私はこの地域コミュニティの精神性にこそ冒頭で述べた小さな大学都市が世界に
轟く起業家の巣になった理由があると見ている。失礼かもしれないが気候風土や自然環境でも
料理や歴史文化でも他の都市より特別に魅力的とは思えないウォータールーではあるが、それ
でもウォータールーのコミュニティはウォータールーにしかないからである。