情報技術文明におけるアメリカの役割
2018.09.06
ArchiFuture's Eye 慶應義塾大学 池田靖史
世界各地を旅してみて、改めて思うのはそれぞれの文化にある様々な差異や共通性、そして歴
史的な交流や影響などの、当たり前とも言えることである。例えばアメリカという国は、もち
ろん1つの国家としてかなり強固な価値観を共有しているようにも見えるが、その一方で地理
的気候的な条件だけでなく、かなり異なる歴史的な発展経緯や社会経済的現状、また州ごとの
政治的主導権を持っていて、文化的にはかなりの地域差がある。そういう意味では逆にヨー
ロッパ諸国はそれぞれの国家には明確な文化的特色や政治的立場があるのだが、その境界は実
に曖昧で、ほとんどの場合連続的に移行しており人間的な交流も日常的である。むしろ「国境」
というのは税制などの社会的制度の区分であって、民族や宗教、言語などの区分ではないのか
もしれない。本当は海に囲まれた日本だけが特別なのだろう。そんなことを特に感じたのは最
近スイス工科大学チューリッヒ校に来てみてフランス語圏、ドイツ語圏、イタリア語圏を一つ
の国の中に持地ながらもNATOには参加しなかったスイスという国を実感したからだろう。
しかし、今回のコラムは話題をもう少しアメリカに絞ってみよう。UCLAとMITの両方で連続し
て客員教員をさせていただいたおかげで、おそらく普通よりはアメリカ東西の温度差を感じた
からだ。西海岸のおおらかさに比べると東海岸の正義感溢れる真面目さは多くの人が感じると
ころだろうが、文化の最も明確な副産物である建築と、現代国際社会の巨大な潮流である情報
技術の関係もその文脈によって異なる捉えられ方をしている気がする。 MITメディアラボで驚
いたのは社会の要請に応える先端テクノロジーの開発というよりも、むしろ逆に社会規範の先
端テクノロジーへの適合、というかなり制度的、倫理的、政治的な問題が共通的になっている
ように思えたことだった。例えば自動運転の衝突事故において相手が飛び出して来たような場
合、どこまで乗客側の安全を優先すべきなのか、どのようにしてその基準を導くか。例えば
データの解析によってできてしまう社会的な大衆誘導はどこまで政策的に利用が許されるのか、
こうした新しい技術が突きつける問題はこれまでの社会規範や法的制度の想定外であり、その
技術のもたらす利点の価値も鑑みつつ、新たな制度やルールを設ける合意が形成されなくては
ならない。そういう問題意識は今年度のArchiFutureのテーマにも反映されている。どの程度
意図的な方針なのかはわからなかったが、むしろこうした技術倫理への積極的挑戦に東海岸的
なアメリカ精神の背景をみた気がしたのである。
ケンブリッジのあるボストン近辺はアメリカ建国の歴史の地でもある。神話化されているメイ
フラワー号到着に始まり、さまざまな意見を持つ人間の話し合いと明文化された約束事の積み
重ねによって人為的に理想的国家の形を作って来たことを誇りに思っているのが一般的だと思
う。自然発生的でもなく神の力でもなく、人間の政治的な知恵が、世界的な文明の進歩を社会
として実現して来たと自負していると感じる。全てがいい結果を生んだかどうかは別にして、
それが間違っているわけでもない。ヨーロッパ文明が産業革命によって新しい社会に生まれ変
わろうとした時、資源のスケールとともに進歩的かつ理性的そして法律や契約などによる完全
なる明文化という合理的手法によって、それを制度化することで国際社会をリードして来たこ
とは事実である。
理系中心のMITと同じケンブリッジにあって文系中心のハーバード大学は姉妹校のように補完
関係にあると感じた。その中でグロピウス以来の伝統を持つGSDはまさに近代の建築技術を建
築文化に昇華させる役割を中心的に担って来たところだと思うが、その手法は洋の東西を問わ
ず世界中から新規性や注目度のある建築家や理論家を招き、数年という短期間でその全てを入
れ替えながら、その中で徹底的に議論を戦わせ、相互に認められることで文化的価値をオーソ
ライズしていくことにある。デジタル分野では、私の友人アルゴリズミック・デザインのコス
タスは既に去り、ゲーリーテクノロジーの天才的プログラマーだったアンドリュー・ウィット
氏がコンピュテーショナル・ジオメトリを担当しているが、昨年から慶應義塾大学SFCの出身
でもある日本人、貝島佐和子さんによるコンピュテーショナルな構造最適化の授業も始まった。
建設ロボティクスのマーチン・ベッチホールド教授を中心にデジタル・デザインの層を厚くし
て来ているとも取れるが、パトリック・シューマッハのスタジオ講評会でさえもデジタル批判
の意見が飛び交うなど、健全ながらも容赦ない戦いの場でもあるようだ。アメリカ以外にも多
民族国家はあるが、最も中立的かつ公平な文化的戦いの場としての米国東海岸を求めているの
は他の国々なのかもしれない。アメリカ自身の国内の建築デザインの平均レベルを見ると、余
計なお世話だと思う国もあるとは思うが、やはり世界中の新しい文化的な試みが、ここで国際
的な洗礼を受けることで地球文明的な価値を見出されるという構図を共有していると言えるだ
ろう。UCLAで知り合ったグレッグ・リン教授がハーバードGSDでも教えていて、「ロボット
と共存する空間」というクラスに呼ばれて話した時に西海岸との差を話題にしてみた。彼の言
葉で印象に残っているのは西海岸の風潮はルースレス(無慈悲)な経済的判断による過度な市
場主義的傾向が強いというものだった。それはAmazon、 Apple、Facebookなどの自由主義的、
商業主義的な企業風土とその強い世界的影響力を連想させつつ、それだけがアメリカ的精神で
はなく、技術文明の行く末を倫理的な合理性と文化的価値から真摯に求めるもう一つの側面を
東海岸の役割として強調しているように聞こえた。
さて、こうした法的契約社会の体系を形成して来たアメリカが作った基本的社会制度の一つが
「著作権」あるいは「特許」などの知的所有権である。大量生産が可能になった工業化社会で
はこの概念を導入しなければ、発明への努力を促進しつつ、大量生産による商業的成功に対し
て公平感を保つことは不可能だった。建築デザインにおいては比較的明確ではないと言われて
いるが、一方で同じ根を持つ社会的理解がスター建築家の「作家性」にあると思える。批判し
ている訳ではなく、彼らはみんな芸術的才能と人間的魅力、信頼できる見識と、非常に説得力
のあるコミュニケーション能力を持ち合わせている。しかしその一方で巨大で複雑な現代建築
の全てが一人の人間の構想力によってのみ生まれていると思うのはあまりに無理がある。強力
なリーダーシップを発揮していたとしてもチームワークの成果であることは自明に近い。そこ
に属人的な物語が深く関わる作家性を見たいと思うのは知的創造に関する個人の働きの尊重と
いう根本的な社会規範に基づくものではないだろうか。建築において契約や図面で明示化され
た大規模で複雑な協調的作業が可能になったからこそ、そこに個人の姿を投影する必要が、や
はり創造的活動を促進したほうが活性化する社会の側にあって、ジャーナリズムを使って「作
家性」の存在を信じさせて来た。しばらく前に譜面がかけない全盲の作曲家が社会的に吊るし
上げにあったが、自分でマウスを持たない建築家とどれだけ違うか疑問である。彼はむしろ社
会の側が作家性に期待するものを幻滅させてしまった罪に問われたのだろうと思う。
なぜこんな話を持ち出すかというと、この知的創造に関する個人主義という社会規範もまたデ
ジタル技術によって、大きく揺らいでいるものの典型だからである。ソフトウェア開発の世界
ではコピーや改変が容易いことが、むしろオープン化や共有化に結びつき、協調的バージョン
コントロールという概念によって、見知らぬ他人とSocial Codingが可能なGitHubのようなプ
ラットフォームが受け入れられ、結果的に圧倒的な生産性を発揮している。それに大量なコ
ピーを作って頒布する能力もみんなが同様に持っているから、もともと守ろうとしていた発明
者と生産者の間の公平性そのものの根拠も薄らいでいる。デジタル・デザインにおいても形態
を生成したり最適化したりするモジュールが流通してくれば、同じ状況になることは明らかで
ある。そもそも同じプログラムに異なるパラメーターを入力した別な形態はコピーなのか?そ
れを生成結果から見分けることは可能なのか?
アメリカ的資本主義経済がその商業的活動と文化的価値の原動力にしていた知的所有権や作家
性に、前半で述べてきたような東海岸的な社会的技術適合システムから、自分たち自身でどこ
までメスが入れられるのか。この場合にはかなり根本的な問題ゆえに、この後の議論が興味深
いと思う。