ゲーミフィケーション理論による
究極のデザインツール
2019.03.05
ArchiFuture's Eye 慶應義塾大学 池田靖史
先日は日本建築学会BIMの日シンポジウムに招かれパネルディスカッション「BIMによってな
くなるもの・うまれるもの~建築業界のパラダイムシフト」に招かれて大変面白い議論に参加
できた。とはいうものの、予想外に直前の予定が長引いてしまい会場に駆けつけた時には私の
話題提供プレゼンの時間が過ぎてしまっていて、ディスカッションには私のピンチヒッターと
して豊田啓介さんが着席したところだったという大失態をしてしまった。当日の参加者に、
このコラムをお読みになっている方もいらっしゃると思うので、ここで改めてお詫び申し上げ
たい。で、その罪滅ぼしというわけでもないのだが、この日のトピックについて私自身、うま
く語りきれなかったという後悔もあり、主催団体とは違うものの、読者層はそれなりに一致す
るところもあるだろうと思えるこのコラムで、続編というか、解説編というか、再挑戦を試み
たい。
もともと私が話題提供しようと思ったことをシンプルにいうと、BIMの本質は、当初考えられ
ていたように分業化されている建築ビジネスの各分野での業務改善ツールではなく、様々な分
野の仕事をデータでつなぐ共通基盤であって、そのデータインタラクションがデザイン、工法、
空間利用、そして仕事の組織や仕組みまでの全ての関係を総合的に変革できうる。という点
だった。しかし、だからと言って誰もがBIMによる大規模な一気通貫のシステム利用を目指せ
と言っているわけでは決してない、今までに想像もしなかったような量と質のデータの交換作
用が新しい価値を生む様々な連携の場面がそこら中に存在するはずという意味で、インター
ネットやGPSのようなデータシステムが、当初は全く想像しなかった新しいビジネスや使い道
を見出せたように、BIMも個別の思惑を超越したところで思わぬ破壊的イノベーションを生む
ことこそに、これからの価値があるのではないかという期待を述べたわけだが、考えてみると、
こうした議題が議論できるようになったこと自体にBIMを中心としたコミュニティの拡大と成
熟を見たようでもある。
一方で、当日のパネリストで不便益という概念を提唱されている京都大学の川上浩司先生が投
じた一石は上述したような私の視点よりずっと深いところで、人間が作るあらゆるシステムの
哲学的意義を問い直していて大変刺激を受けた。
不便益とは、不便であることの益という意味で、「便利とは、手間がかからず、頭を使わなく
ても良いことだとします。そうすると、不便で良かった事や、不便じゃなくちゃダメなことが、
色々と見えてきます」と説明され、便利にすることで本来の価値や意味が消失してしまう可能
性を示唆している。だからと言って便益の追求を全否定しているのではなく、便益からは発想
できない価値を見出すための方法として再認識しているのだと思った。BIMの出発点でもあっ
た定式化された作業の自動化による利便性の観点から、新しい価値の創造への模索を意識して
いた私にとっても、とても示唆に富む指摘であった。
私自身がすぐに思いついたのは、ゲーム性を社会的な体験デザインに応用してモチベーション
の向上に役立てるゲーミフィケーション理論との類似性である。サッカーもゴルフもわざと難
しい方法に挑戦していて、手を使ってもならないし、道具を改良しすぎることはそのゲームと
しての面白さの本質に関わる。コンピュータ・プログラミング学習の初級編は様々なゲーム製
作であることが多いが、単純なものでは厭きてしまうし、ついていけないスピードのように無
理ゲー過ぎてもやろうと思わないから、長続きするゲームはコンピュータの動きと人間の好奇
心の適切なバランスということがわかる。つまりゲーミフィケーション自体が人間によって楽
しむことのできる不便益を準備することなのだが、後述するように機械学習がその支援をする
ようになって、人工的なシステムとしてのコンピュータと人間の関係を考える上でかなり本質
的であるような気がする。
当日の議論の中ではデザインのツールの一つとして筆記用具(ハンド・ドローイング)が出て
きた。確かに生まれて初めて紙と鉛筆を持ってから上手にスケッチがかけるようになるまでに
は大変な修練が必要であることを思えば、決して便利とは言えないツールであるにもかかわら
ず、コンピュータでどんな精緻で高速なイメージングが可能になっても、消え去っていかない
何かがそこにはある。その熟達の意味をゲームと同じようにユーザーの自己肯定感と考えるこ
とも、スポーツの名選手と同じように社会的な評価にもとづく達成感と考えることもできる。
何れにしても、もし何の努力もなしに獲得された能力であれば(なぜだか)欺瞞のように扱わ
れてしまうので、手間を減らすという利便性追求の論理と絶対的に矛盾することは確かだ。そ
して修練によって高度な能力を得たことが、さらに高度な段階へ向けた継続への動機付けとな
ることも見逃してはならない。確かにハンド・ドローイングにはデザインツールをめぐる人間
の身体性と本能的欲求の関係の深さが示されていると言えるだろう。
ただ、コンピュータがツールになった時に、これまでと少し違う様相の部分があるように思う。
その思いを強くするのが将棋の藤井七段のようにコンピュータ・シミュレーションで自らを鍛
えた例である。一般にシミュレーションは一定の計算モデルに従った予測を提示するものであ
ると考えられているが、計算モデルは人が準備したにもかかわらず計算結果は予測ができない
からこそ有用性がある。膨大な計算が超高速にされているに過ぎないにしろ、人間の予測能力
を超えられなければその存在価値はない。ところが高速化により試行錯誤的に探索できる多数
の可能性が提示されることよって次に起きるのは人間による予測結果群からの学習効果であり、
高度なパターン認識とメタレベルへの解釈能力が発揮されて、シミュレーションに意識的にモ
デル化されていなかった何かを発見するプロセスである。例えば、気流シミュレーションのパ
ターンを膨大な数繰り返し経験した環境デザイナーには我々と違う空間が見えていると思う。
さらに重要なのは、昨今のように機械学習が取り入れられたシステムであれば、こうした人間
側の解釈能力の成長と発展の成果もコンピュータ側にフィードバックされて、シミュレーショ
ンモデルの改善に使われる点にある。つまり、双方がパートナーとしてお互いに高め合ってい
く存在になっていくことである。前述した例のように優れたツールやゲームには上達すればす
るほどさらに高度な段階が見えてくるという懐の深さもその特徴であったが、コンピュータの
デザインへの応用にはその可能性が十分に含まれていることがわかる。
ここまでくると、この考え方は「人間の知能をシステムの中に含んで考えるフィジカル・コン
ピューティング」という概念にも通じると思えてくる。フィジカル・コンピューティングは、
現実の現象とコンピュータによる計算の両方を組み合わせて作るある種の計算システムと解釈
できる。自然界の複雑な現象では、計算モデル化が難しい場合や、あるいはコンピュータより
も早く結果を出す場合がままあるため、現実の現象のセンシング結果とコンピュータによる計
算の組み合わせや補正・補完などによって実用的な速度で動く結果を得ようという発想は
ロボット制御などから自然に生まれてきた。だとすれば、これを最初から意識してモデル化と
現実のセンシングの連係システムの構築を指す言葉が「デジタルツイン」と言えるだろう。例
えばスマートシティの分野では現実の交通量のリアルタイムな把握を交通信号の制御に即座に
反映するイタチごっこのような方法でも、結果的に利用者と制御システムの両方が徐々に適応
してくることもあるようだ。このように実用上、複雑な現象の典型が人間の知能と集団的行動
だとすれば、それはBIMとIoT建築の間で起きつつあることでもあって、コンピュータと人間
の知能を相互作用させるシステムが決して荒唐無稽ではなく、むしろ既に実現されつつあるこ
とがわかる。だからこそゲームにおいては「リアルタイム」という人間の思考とシンクロナイ
ズできる適切な応答速度(昔は遅いことが多かったが最近は早過ぎて上手くないこともある)
がクリティカルな問題にもなる。デザインのツールにおいて様々な人間側オペレーションとそ
の結果の提示の速度ついて、もっと重要視すべだろう。
もう一度不便益とゲーミフィケーションのポイントに戻ってみて、人間が敢えてコンピュータ
により増大する選択肢の複雑化に迷い込む不便を繰り返すことで、そこからの発見がコン
ピュータに共有され、それによって発見的な楽しみが継続し続けるように同期的に相互成長す
ることが、究極のコンピュータ・デザインではないか、と夢想してみた。