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コラム

情報システムとしての都市とそのサイボーグ化

2022.07.28

ArchiFuture's Eye                  東京大学 池田靖史

私が東京大学で槇文彦先生に師事した当時、研究室のテーマは専ら「都市性と空間」というこ
とで、そもそも都市とは何か、都市空間は社会に何をもたらすのか、というようなことを熱く
議論していた。都市への関心がずっと続いていたことが、後になって情報メディアとしての建
築・都市という建築情報学の視点につながることになった気がするそこで今回のコラムでは
当時のこの分野の古典を再度紐解きながら都市を情報システムとして捉えることについて書い
てみようと思う。
 
都市は、もちろん人口が集中しているエリアである。それはそうだが、むしろ何故人口が集中
しているかに都市の持つ本質がある。一般的な答えは集中して住むことによって得られる様々
な生活上のメリットだろう。例えば水やエネルギーが地域内の共有インフラとして整備され、
食料だって加工、輸送、販売の分業的な流通システムが整うことで、都市市民には圧倒的な利
便性が提供される。このように基本的な生活維持のための地域集約的な資源分配手段を共有す
ることは都市の初源的な役割の一つだ。都市の歴史の中でそれとほぼ同時に形成されるのは、
この共有資源を力づくで奪取しようとする外敵から防衛するための機能であり、したがって城
壁の中に集まって住むことが一般的だった。このように都市はそもそも多数の主体の集約的な
協力関係による社会システムであることは自明である。
その上で、そこには離散的で複雑な経済的活動が並行して形成される。すなわち市場の存在が
共有資源の配分システムを担うようになる。中国語で都市を「城市」と呼ぶのはこうした認識
によると理解できる。
ネットワーク上の活動や情報交換が増えている現代において、仕事や学校などのアクティビ
ティ以上に、オンラインでモノを販売や交換をして運搬や配送と分離する方法が、これまでの
場所に根ざした経済システムとしての都市の役割を変質させ、社会は地域への人口集中なしに
起きる経済活動にどんどんシフトしつつある。
 
ここまでの経済的な価値交換と資源共有だけでも都市が有機的なシステムを形成していると理
解することができるが、都市にはもっと複雑で、より本質的なシステム性がある。それは都市
がそこに関与した人間に関する膨大かつ多様な情報を「建築」というメディアに記録・蓄積し、
長期的に活用可能にしていることだ。果たして建築と都市の間に明確な境界が存在するのか私
にも疑問であるものの、この場合であれば構築主体の複数性多様性(多声的性質)がその区別
の鍵であると考えている。市民が都市に残していった足跡は、全てが残らなくても互いに影響
しあって集積し、集合的な意識の自己組織的な形成に向かう。これを分析的に提示したのが
都市計画家ケビンリンチが「都市のイメージ」(1960)で指摘した集合的意識形成システムと
しての都市の存在である。リンチが、それぞれの住民の頭の中にある地域の地図を何も見ない
で描いてもらう、いわゆる認知地図の手法を用いて、個人の中には断片的にしか存在しなくて
も、ある程度の数の人々に共通の認識として形成されている認知的都市要素が存在し、結果的
に共同体の集合意識としての都市認知地図が共有されていると見出したことはその後の都市デ
ザイン手法に大きな影響を与えた。それは都市が中央集権的なシステムだけではなく、民主的
な共同体意識形成のシステムであるというジェイン・ジェイコブズなどが「アメリカ大都市の
死と生」(1961)で主張した思想とも一致した。
 
リンチの議論は主に都市空間認知の生理的な部分に単純化されていた。すなわちある意味動物
的な身体感覚で形成されるものであり、地域を超えて通用する一般性があった。それに対し、
建築空間形式とそこで起きる活動の類型化が織りなすこの集合的な共通認識の形成システムの
存在を、都市景観の歴史的文化性にも拡張できることを主張したのがクリストファー・アレキ
サンダーの「パターン・ランゲージ」(1977)ということになるだろう。現代の情報技術で考え
ると都市を限りなく巨大な共同編集ドキュメントであると例えたことになる。
アレキサンダーはその終わりなき部分書き換え作業に自己組織的な秩序をもたらしてくれる要
因について、人間が複数体験からパターンとその意味を見出す無意識な働きにあると考えた。
この経験的インターフェースがずっと後になってソフトウェアのような実態のないデザイン行
為にも受け入れられたことは都市の持つ情報システム性を理解する上でとても興味深い。
 
地域の歴史と文化は気候や植生のような自然条件にも、宗教や民族のような人為的条件にも左
右されて固有性を形成していく。それすらも都市がこのような長期的に影響するインタラク
ティブな読み書きメディアであることの結果であると捉えたのが、都市コンテクスチャリズム
であると考えていい。コンテクスチャリズムは20世紀になって国際的な情報流通量の飛躍的
増大と技術のグローバル化が進み、建築や都市が地域を超えて画一化してしまうことに対する
疑念の論拠として支持されたが、それでもなお工業生産の標準化と多国間貿易の力は強力だっ
た。
現代社会においては巨大な規模で多様な主体の集合意識形成がオンライン上に出現している。
それは物理的な実体のない都市的な社会活動の出現とも言えるが、その結果サイバー空間には
存在しない地域の社会や文化の固有性が、逆説的に現実空間の最大の特徴になることが次のリ
ソースになるのかもしれない。
 
都市景観がこのような集合的意識の産物であることは市民のアイデンティティとともに、そこ
にエキゾシズムを感じる外部からの価値にもつながる。そのため地域の歴史を反映した街並み
や都市空間を保全したいという思いはもっともである。ところが少しずつ成長変化してきた都
市のどの時点の状態をその理想とするのかが問題として残る。繁栄と成長が激しい都市の方が
保全は難しいようにも思えるが、逆に繁栄があるからこそ特徴のある文化と空間が生まれたと
も言える矛盾もある。この他にも、自然発生的に形成された歴史性のある街並み景観のもう
一つの典型的な不思議は要素の類似性と多様性の共存である。ほとんどの場合その場所に固有
の様式的統一感が見られる一方で、微妙な差異を楽しむかのような多様性が魅力として認識さ
れている。論理的には矛盾する逆方向の動的平衡を維持していることは、都市の複雑システム
の存在を示していると、現代の情報論的な解釈が成り立つ理由でもある。
 
日本にはヨーロパの多様で変化のある古い街並みをそっくりに模倣した場所がいくつもある。
どんなに完璧に再現してもどこか虚しさが残ることもあれば、折衷的に中和されモディファイ
されながら溶け込んでいくようなものもあるのは何故だろうか?いろいろな説明が可能だと思
うが、最大のポイントはその街並みを介して相互作用を続けている市民の存在の有無であるこ
とのように思う。その空間形式をメディアとして思想や活動に影響を受けつつ、同時に現時点
での生活感覚の自然な表出でもあり続けてなければただの抜け殻だからだ。
都市の本質が市民の活動にあるのか、それとも都市空間の物理的状態にあるのかという議論
は、我々の思考と意識が神経信号の働きにあるのか、それとも脳の物理的構造にあるのかとい
う議論と同じである。どちらがなくても成り立たないので、結局はその両方に存在していると
言わざるを得ない。その上で、都市の本質はその両方で作用している成長や新陳代謝のシステ
ムの方にあって、物理的形態も一時的活動もそのプロセス上の仮の姿に過ぎないとも考えられ
る。今思えば、日本の建築文化に根ざしてこのことを強く意識したのがメタボリズムの主張、
菊竹清訓の「代謝建築論」(1969)だった。しかし新陳代謝を少しでも容易にするためにモ
ジュール構成を準備したり、新陳代謝の概念を理論で説明しても、新陳代謝を駆動する人間社
会と環境のシステムをデザインすることは難しかったように思える。
 
代謝建築論と同じ1969年に人工物のシステム構築をシミュレーションによる検証と発見的展
開で実現することこそが科学的デザインであると定義したのがハーバート・サイモンの「シス
テムの科学」(1969)だったがシミュレーション技術が進化した今まさに都市情報の分析か
ら予測し都市活動への介入につなげるリアルタイムなメタボリズムの構築を次の段階に推し進
めることができるのではなかろうか。 
ただそれでも巨大なホメオスタシスとして「生きている」都市のシステムを作ることは神の技
に近いようにも思える。これまでも都市にメタレベルの知性と意識が存在していても、一つの
細胞にすぎない我々は気づくことすらできなかったように、この情報システムの生命体として
の群知能を持つ都市が、さらに情報技術でサイボーグ化されることによる強化がどこに向かう
かも残念ながら個々の人間には到底理解できないのかもしれない。

池田 靖史 氏

東京大学大学院 工学系研究科建築学専攻 特任教授 / 建築情報学会 会長