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コラム

草の根コミュニティを育てる植木鉢

2023.06.01

パラメトリック・ボイス                                   竹中工務店 / 東京大学 石澤 宰


先日あるアイドルのファンコミュニティに参加させていただく機会を得ました。例えばライブ
の開催日がメンバーの誕生日だったりするとファンが示し合わせて、普段は思い思いの色で点
灯しているペンライトをサプライズで一曲その担当カラーに揃える「一斉点灯」というのをし
ます。もちろんファン同士で意思疎通できていないと成立しないので、ライブ前にフライヤー
などを配て告知するわけですがその企画も誰かがやっているそういうコミュニティです。
これまで当然乗っかる分には乗っかってきたわけですが、いよいよそれも企画する側に……!
と思って身が引き締まりました。いえ、まだ仕事は何もできておりません。先達が素晴らしい
仕事をされているので、私もこれからがんばります。

どんなコミニテでもある熱量の高い人達が中核になって活力が生まれている側面がある。
組織の中ではCenter of Excellence(CoE)とか、あるいはCommunity of Practice(CoP)
と言われたりする集団・共同体です。このCが揃ってないのがいつも気になりますが、たまた
ま見た目が似ているだけなので文句を言っても仕方がない。

発想としては、デキる人・アツい人を集めよう、その組織で何か成し遂げることを組織の成功
体験として持とう、という話なのだと思います。そういうコラボレーションは、なにやらフェ
スやオールスターゲームのようでそれだけで面白そうだし、何かが起きそうだという期待も持
てる。

このデキる人・アツい人というのは、どこに行っても、誰と組んでもそうなのでしょうか。会
社や学校で八面六臂の活躍を見せる方々に死角はないようにも思えます。しかし、たとえば英
語が苦手な方が国際会議に参加することになったら?1時間半の講義をこれから始めるのに、
学生が課題で疲れ果ててもう寝てしまっていたら?それはどうも場が悪い・相手が悪い、と
思ってしまいそうです。それでもなんとかするのが能力?英語力や、眠りも吹き飛ばすトーク
力があれば解決するのでしょうか。

この、能力が発揮できないのは環境が悪かったから、というのは能力側に視点を置いた話です
が、そもそも「人間には常に発揮できる能力というものが備わっている」ということ自体にそ
もそも疑いの余地があるのでは?という視点が提示され始めています。

特に話題になっているのは勅使川原真衣氏の「『能力』の生きづらさをほぐす」(どく社)で
しょう。コミュ力、主体性、協調性などの「能力」はどれだけあって、どれだけ備わっていな
ければならないのかと思うと果てしない。しかしそれは「仕組まれた何か」ではないか?それ
らにまつわる人材開発やメンタルヘルスケアも同じではないか?という視点が次々に提示され
ます。NewsPicksパブリッシング編集長の井上慎平氏も転職を機に陥った苦境から、自身の弱
さや制御できなさをパフォーマンスやマネジメントなどの社会に求められることとどう関連づ
けて考えればよいのか、という視点「弱さ考」を展開しています。

そうは言っても企業だってプロジェクトだって能力のある人を求めていて、経営資源として
「安定してパフォーマンスを出せる人」を採用したい、という思いは否定しがたいようにも思
います。しかし採用というのは時に難しく、能力はあるのに職場に合わなかった、という話は
そこかしこに転がっています。しかしこれはもしかして、「ただ環境との相性が悪かった」と
いう話であり、「能力はあるのに」というのは一方的な期待・思い込み・聞きかじった前評判、
つまりは幻にすぎないのではないか。それに、自分自身の健康状態や、子育て・介護のフェー
ズ、その他様々なライフイベントによって仕事との関わり方は変わってゆきます。全てを仕事
に捧げることができる時間というのは人によって長かったり短かったりして、働く期間全体で
見ると意外と限定的であるのかもしれません。

話はヲタクに戻ります。彼らが楽しいときというのは、自分が好きなもののために何かしてい
るとき、たとえばライブの準備をしてイソイソと会場に向かうときとか、自分の好きなものの
話を延々と繰り広げているときなどでしょう。話の合う人たちと盛り上がれば、言いたいこと
ややりたいことは無尽蔵に出てくるはずです。よく知られていることですが、このときのヲタ
クのパワーに勝てるものは、まあそうそう存在しない。好きこそ物の上手なれ、というのは概
ねこういうことを言うのでしょう。

趣味に限らず、組織の新しい取り組みは得てして、こういう「ちょっとやってみようぜ、で始
めたらなんかすごいことになった」というものが核になったりします。そしてどうやら、たと
えば日本におけるCADの導入のようなものも、そんな興りがあるようです。以下は1985年5月
号の近代建築「建築の設計・計画にコンピュータをどう利用するか?」と題した対談での大成
建設(当時)杵渕正義氏の発言です。

最初の頃はCAD対応のジョブは希望者を募った。「ぼくらはこうゆうものを初めたよ。大変便
利だよ」と宣伝してまわる。「大きい繰り返しのある図面は得だよ」というはなしをしたら、
設計部の中でもそういうのが、好きな人がいるわけです。やってみようという勇気のある人間
がいて、その人達が3つのプロジェクトを成立させた。必死に夜の一時くらいまでかかる時も
あってやった。(中略)この人達がシンパとなって、「こうゆうのにはCADを使ったほうがい
いよ」と宣伝してもらっている。そういうふうに草の根的にやってきて、今現在はもう少し組
織的に仕事を選んでいこうということになった。

聞き及ぶにこの当時、大手各社とも似たような状況だったと考えて大きな間違いはないようで
す。GrasshopperであれBIMであれ、同じような空気を体験したことがある方は多いのではな
いでしょうか。改めて理解するのは、ここで手を挙げた「勇気のある人間」は、興味なり好奇
心なりの動機こそあれ、最初の時点からCADのスキルを備えた設計者というわけではなかった
ということです。おそらく、この方々はいずれ「CADができる能力のある人」とみなされたこ
とでしょう。しかし当初の時点で重要だったことは、その仕事に専念できるという現場の理解、
迷いや悩みを共有できる同志の存在、さらには周囲の期待というようなものであったことで
しょう。こうした環境が引き出したものが、あとからラベリングされて「CAD力」のようなも
のになった。

CADを習得したプロセスは、その体系をみれば再現性のあるもののように思えます。だからこ
そマニュアル化され、多くの人達がそれに従って「CAD力を身につける」というプロセスを踏
んでいく。しかしそこに、上記にはあったような現場の理解や同志の存在が伴ったかと考える
と、ほとんどの場合は違うでしょう。となると、そこで身についたものは似ているようで違う
ものであったはずです。

それが良くない判断であったと決めつけることはできません。能力主義的なパラダイムが当然
である世の中で、当時急速に普及しようとしていたコンピュータをどのような形で組織活用す
るかは前例のない問題であったはずだからです。しかしこれからBIMなり様々なDXで似たよ
うなことが起きていくとき、同じストーリーをたどるのが果たしてよいかどうか。十分慎重に
考える余地がありそうです。

では、この環境というのはどうやったら作れるのか。画一的な方法論はないかもしれませんが、
そういうことに興味を持つ人が増えてきているような気はします。直観的に思うことは、ふと
した出会いが時間を経て形を変えて、別なコミュニティの主要メンバーとしてつながることが
ありうるということ。それからこのコミュニティの実現は、あまり大きなお金がなくても実は
可能なのではないかということです。ヲタクコミュニティだけがテンプレート的な正解ではな
いでしょうが、「ワクワクする草の根活動」に通底するなんらかの法則、というものは見えて
きそうな気がします。

ちなみにヲタクの世界はそれはそれでプオタ(TO)が誰であるかとか階層が生まれるよ
うな向きも見られるので(最近私の界隈ではあまり聞かないことですが)、これはもう人間の
サガであるとしか思えません。放っておくとそういうヒエラルキックな世界になってしまうな
ら、そこからあえて距離を置く、というのは「知恵」ともいえそうです。そのあたり、私が最
近毎回楽しみにしているYouTubeチャンネル「ゆる言語学ラジオ」「ゾミア」回(どちらも
クリックするとYouTubeへリンクします)
で取り上げられていますので、ご興味のある方はぜ
ひ。パーソナリティのお二人の知的でありつつ突然脱線したりする軽妙なトークは必聴です。

石澤 宰 氏

竹中工務店 設計本部 アドバンストデザイン部 コンピュテーショナルデザイングループ長 / 東京大学生産技術研究所 人間・社会系部門 特任准教授