AIと共に生きるデザイナー
2023.06.06
ArchiFuture's Eye 東京大学 池田靖史
ChatGPT出現の興奮も冷めやらぬうちに、生成系AIの応用によるさまざまな情報技術が本当
に雨後の筍のように登場している感があり、状況変化の速度についていけるのか私も戸惑って
いる。しかし現実はどんどん先に進んで待ってくれない。東京大学では副学長が新学期開始前
に「生成系AI (ChatGPT, BingAI, Bard, Midjourney, Stable Diffusion等)について」という
声明を発表し、著作権や信憑性などにおける問題を指摘した上で、積極的に良い利用法や新技
術、新しい法制度や社会・経済システムなどを見出していくべきという立場をとり、レポート
課題などにおいても禁止するのではなく、その使用が自らの能力開発を損なう可能性にも自覚
的であるべきことを学生に伝え、教員は提出物の審査に関しては、十分その存在を認識した上
で評価を行う必要性を伝えている。
おそらく今年度、全国の建築系教育機関において卒業制作などの学生の設計作品の作業過程や
提出される図面表現に生成系AI画像が使われる例はかなり出てくるだろうし、場合によっては
見分けることも難しいだろう。上記のようにその存在を認識した上での建築作品評価とは何か
を我々教員側が問われてしまうことは避けられそうにない。
おそらくその使われ方も様々なはずで、構想の初期段階で発想の幅をできるだけ広げることに
使う場合もあるだろうし、プレゼンテーションの最終段階でイメージをエモい感じに仕上げる
ことにも役に立つだろう。それぞれ高速に安価にできてしまうことで、これまでの発想や表現
のテクニックを学ぶ意欲は失われるかもしれない。ただ、卒業制作は現実の設計活動と同じよ
うに、もともと全てを個人で行うことを求めてもいない。だからこれまでも模型の上手な後輩
や、フォトショップの使いこなし方の上手い友人に手伝ってもらっていたこととAI使用はどこ
まで違うのかという見方もある。また既存の建築の参照とその引用や折衷はごく一般的な建築
手法であり、その意味でも設計プロセスにAIを使用すること自体を否定することは難しい。し
かし劣化させた模倣で喜ばれることも難しいように、そうした行為が最終的に作品の質に寄与
したか、あるいは社会的評価を左右しないかについての責任は制作者が取らなくてはならない
ことがその性格を許容しているとも言える。スタッフを使って映画を撮る映画監督と同じよう
に、卒業制作では共同作業的建築設計における指揮能力も評価されるのは、本人に高いデザイ
ン能力がない限りデザインにおけるリーダーシップを取ることもほとんど不可能に近いとの共
通認識による。
これまで建築のプレゼンテーションでは鳥瞰透視図のようにコンセプトを明確に立体ビジュア
ル化したイメージが最もインパクトがあり、その1枚にかなりの時間と熱量をかけて、残りの
図面はその補強とするような戦略が当然のように行われていたし、実際に審査時間に制限があ
る場合などはそうしなければ設計意図を短時間に理解させることは難しく初期段階のスクリー
ニングを生き残れない。しかし、イメージのインパクトを向上させることが比較的得意な画像
生成系AIの使用が一般的になれば、評価は自ずとそのインパクトが3次元的な空間の構成とし
て総合的に実現しているのかという首尾一貫性に求めることになるのかもしれない。いずれに
しても「AIだけで簡単にできてしまう」部分ではなく、さらにそのメタレベルの人間的な判断
と統合力に評価の重点が動くということになる。
これまで手間のかかっていた作業が一気に時間短縮することは、一概に好ましくないとは言え
ない、むしろ経済産業界ならそれこそ望むところのはずである。四則演算のできる電卓がどこ
にでもあるようになって久しい。買い物金額の合計や、1平米あたりの単価を比較するときな
どは誰でも電卓などを使って計算するし、それによって人類の幸福度が落ちているようにも思
えない。しかし計算を習っている小学生が練習問題を解いているときには少し話が違うと気が
ついているし、いっぽうで電卓の存在のせいで社会全体が数字に弱くなったとも思えない。も
ちろん電卓を持っている人間とそうでない人間を計算問題で競争させることが無意味なのも当
然である。現在の生成系AIで今後、ほぼ平等に近い利用機会を提供されるのかどうかは一つの
ポイントかもしれない。古代人から見ればそもそも筆記用具や文字を使っている時点で我々現
代人全員が思考能力を外在化して能力拡張しており、彼らと直接競争するのは不公平であると
思うに違いない。そうして、AIの存在が一般的に人間の能力拡張として日常化した社会におけ
る人間の能力の評価は、当然のことながらハードルが高くなる。つまりできて当然なレベルが
高く設定されることになる。今年から急にこの状況に晒される今年度の学生には少し気の毒だ
が、これから先の世界はもう後戻りしないだろう。
ここから急に私事だが、コロナで出かけなくなった頃から少しばかり料理をするようになった。
大した腕前ではないので何も自慢するようなものはないのだが、ある日、得意料理は何ですか
と聞かれて、そもそもそれは何を意味しているのだろうと考えた。人から美味しいといっても
らえるものと考えるのが普通かもしれないが、ほとんど自分で食べるために作っていたので、
その発想すらなかった。ただ実際にやると自分で美味しいと思うことと調理過程の関係には自
ずと理解が深まる。加熱時間や部材カットの大きさ、どんな材料や調味料を使うかなどの無限
のバリエーションが、食感や味覚、見た目や香りなどの何に影響しどういう感覚を作り出すの
か、これまた無限なバリエーションとの関係があるのが面白い。誰でもそうだとは思うが全て
を試してみることは無理に決まっているので、自分の好きな味を中心にして少しずつ経験と知
識を増やしていくしかない。その結果としてその周辺の可能性には多少なりとも鋭敏になり想
像力も高まる。つまりこうしたことが誰も褒めてくれなくても得意料理への道なのだろうか。
そうだとするとそこには自分の舌で味わい、他の料理やお酒との相性や食器なども含めたあら
ゆる経験とその試行錯誤の回数が最も大事なはずである。その料理における美味しさの可能性
をどこまで理解しているのかは、もちろん他者からの情報から学んだことも大いにあるはずだ
し、その成果も他人と共有できて社会的な価値が生まれるのだが、どこまで行っても自分自身
の個人的な経験と感覚を頼りにする以外は無いし、そこから離れてしまっては「美味しい」と
いうことの存在意義も見失ってしまう。
さて、ちょっと強引だがこれは建築とデザインの関係に通じるものだと、あるとき妙に納得し
たのである。知識や技術を総動員して考えても無限の可能性の中のほんの一つを選んで実現す
ることしかできないが、その手探りの体験こそが他人には無い自分だけの何かを育み、それを
世に問うこともできる。そう、結局建築においても自分自身の体験とその影響要因に関する考
察によって自分を磨く以外に、自分自身の満足感を見極めることも、責任を取る覚悟で他人を
説得することも不可能なのである。それはAIの存在に関係なく、我々自身の存在価値を決める
ためのものなのだから。
現時点で建築を学ぶ若者は生成系A Iの影響を逃れて生きることももう無理なはずである。楽
をするためにだけAIを使ってもそのツケを払うのは自分である。逆にAIが自分のデザイン能力
を磨くことに使われればその未来は明るい。AIと共に生きるデザイナーとしての新しい世代の
矜持を示してもらいたいと思っている。