《シン・ミンカ型パッシブ》としてのソラキスー
『太陽建築』を読んで
2023.06.27
ArchiFuture's Eye 明治大学 / 川島範久建築設計事務所 川島 範久
前回のコラムでは、建築をエネルギー性の観点から見ると、焚火とテントの2つの側面がある
ことを書いた。これらは別の言葉で言えば、焚火=機械的手法(アクティブ)、テント=建築
的手法(パッシブ)となる。
建築には「環境・エネルギー制御装置」としての側面があり、その制御は、建築的手法によっ
てパッシブに行うこともできれば、機械的手法によってアクティブに行うこともできる。建築
物の使用のされ方=プログラムによって、このパッシブとアクティブの適切なバランスは変わ
り得るといったことを前回のコラムでは紹介したわけであるが、住宅をはじめとする長期間・
年中使用するようなプログラムの建築物においては、省エネルギーの観点から、機械的手法
(アクティブ)に頼る前に、まずは建築的手法(パッシブ)に取り組むべきだ、と言われてい
る。
エアコンをはじめとする機械設備によって、建築的な工夫を特にしなくても室内環境を調整す
ることが可能になったが、そこでは大量のエネルギーが消費されることになる。地球の資源は
有限であり、エネルギー消費に伴って排出される二酸化炭素などにより地球温暖化といった気
候変動が深刻化してきていることは説明するまでもないだろう。そこで重要になるのが「パッ
シブデザイン」である。
下記は、長年パッシブデザインの理論構築とその普及のための建築教育活動を続けてきた小玉
祐一郎(神戸芸術工科大学 名誉教授)によるパッシブデザインの概念を説明するダイアグラム
だ。変動する外部環境をまずは建築的手法(パッシブ)による調整により快適範囲に近づけ、
それでも届かない範囲を機械的手法(アクティブ)によって調整するべきである、ということ
だ。
このパッシブデザインで鍵となるのが〈太陽〉だ。太陽は暖かさ(と明るさ)をもたらしてく
れ、太陽と地球の動きによって生み出される風は涼しさをもたらしてくれる。これにより、空
調機器などで使用するエネルギー量を減らすことができ、快適性も得ることができる。この
〈太陽〉の力を活かすパッシブデザインは、「パッシブソーラー」と呼ばれる。
そのようなパッシブソーラー建築、「太陽建築(ソラキス|SOLARCHIS)」の研究・設計を
続けてきた井山武司による遺稿が、その井山のもとで2002年に研修をした渡辺菊眞の編集によ
り、2022年8月に太陽建築研究会から『太陽建築ー母なる地球 父なる太陽ー』として出版され
た。今回のコラムでは、渡辺さんから依頼され執筆した、この『太陽建築』の書評を紹介した
いと思う。
渡辺さんからこの書評を依頼されたことをきっかけに、昨年10月に庄内に赴き、渡辺さんと太
陽建築研究会の小島英理子さんによる案内のもと、井山の庄内の作品をいくつか見学させてい
ただいた。井山の自邸でもあった「太陽建築研究所(SOLARCHIS no.33, 1993年)」には宿
泊までさせていただき、渡辺さんが研修をしていた際の井山についての思い出話なども聞きな
がら夕食をいただいた。日中に見学した井山の実作群を思い出しながら、夕方から翌日の午前
までの時間を「太陽建築研究所」で過ごすことで、井山がめざしていたものがおぼろげに見え
てきた気がした。正直に言うと、勉強不足で井山武司という人物もその作品も、渡辺さんのレ
クチャーで聞くまで知らなかったのであるが、井山の試みは、現代では既に固定化されつつ
あった「パッシブソーラー建築」のイメージをほどき、”こうなるはずだったかもしれない”新
たな「パッシブソーラー建築」の姿を想起させるものに私には見えたのである。本稿では、
『太陽建築』の書評として、井山が示した新たな「パッシブソーラー建築」の方向性について
論じてみたいと思う。
井山による「太陽建築(ソラキス|SOLARCHIS)」は、1970年代のオイルショックを契機に
世界的に研究と実践が始められた「パッシブソーラー建築」の試みのひとつとして位置づけら
れるものと言ってよいだろう。本書(表5-1 SOLARCHIS List)によれば、この試みは1979年
の佐藤邸(No.1)に始まり、様々な試行錯誤を続けながら、2014年の井上邸(No.51)まで続
いた。
米国でNational Passsive Solar Conferenceが開催され始めたのは1976年、フロリダ大学の
バウエン教授を中心にPLEA(Passive and Low Energy Architecture)が組織され国際会議が
開催され始めたのが1982年であるから、1979年から始まったという井山のソラキスの試みは
世界的にみても先駆的なもののひとつだったと言えるだろう。
しかし、井山のソラキスの試みを再評価するには、「パッシブソーラー」の重要性、あるいは
その取組みの早さを強調するだけでは不十分だろう。井山(1938-2014年)の前後に「パッシ
ブソーラー」の研究・実践に取り組んできた日本人を多く挙げることができる。このような同
時代的な取組みと何が異なるポイントだったのかを冷静に見極める必要がある。
まず「パッシブソーラー」への取り組みの先人として挙げられるのは、奥村昭雄(1928-
2012年)と木村建一(1933年-)だろう。奥村は、後の空気集熱式のパッシブソーラーシス
テム「OMソーラー」(1987年-)の原点となる「星野山荘」を1973年に完成させた。木村は
いち早く太陽熱暖房の研究を始め、実験住宅である「木村ソーラーハウス」を1972年に完成
させた。奥村・木村共通して、この頃からコンピューターを用いた熱収支計算により、ダイレ
クトゲインや蓄熱などの効果の検証が積極的に行われ始めたことも忘れてはならないだろう。
この流れを継ぐその後の世代(井山の少し後輩の世代)としては、野沢正光(1944-2023年)
と小玉祐一郎(1946年-)らが挙げられるだろう。野沢は先のOMソーラーの研究を奥村らと
ともに1980年代からはじめ、後にOMソーラー研究所の代表も務めた。先にも紹介した小玉も、
早くからパッシブソーラーの研究に取り組み、環境シミュレーションによる検証を発展させな
がら実験住宅である「つくばの家Ⅰ」を1984年に完成させた。また、流れは異なるが、同世代
でパッシブソーラーに取り組んだ建築家として難波和彦(1947年-)も挙げるべきだろう。
難波が1995年からスタートした「箱の家シリーズ」は、深い庇を持つ南面大開口に面する吹抜
を中心とする間仕切壁のないガランドウな一室空間の構成が特徴である。冬の日射は内部に最
大限取り込めるように、夏の日射は遮れるようになっており、自然通風も十分に可能な計画と
なっている。また、外皮を高断熱高気密とし、外断熱した基礎部RCに加え、アクアレイヤーと
いう水パックを床に敷設することで、熱容量を大きくしており、冬の日射取得による温熱ある
いは夏の夜間の自然通風による冷熱を蓄えることを可能にしている。
小玉の「つくばの家Ⅰ」は、材料・構法や細部に異なる点はあるものの、冬のダイレクトゲイ
ン・夏の日射遮蔽・昼光利用・自然通風・断熱気密・蓄熱といったパッシブ手法の観点から見
れば、難波の「箱の家」と共通している部分が多く、《箱型》である点でも共通している。こ
れらを《箱型パッシブ》と呼ぶことにしよう。
一方、奥村から野沢らに続く「OMソーラーの家」は、南向きの傾斜屋根面を大きくとり、太陽
熱を集め、その屋根面の中空層に導入した外気を暖めた上でファンで床下空間へ送り、床面を
暖めながら基礎部のRCに蓄熱しつつ、室内に導入する仕組みである。また、その太陽熱を給湯
にも使用する仕組みも備えられている。2012年には太陽熱利用にプラスして太陽光発電を可能
にした「OMクワトロソーラー」といったシステムも開発された。いずれも南向きの屋根が主役
であり、片流れ屋根のこともあれば、切妻屋根だとしても棟位置を北に寄せ、南向きの屋根面
を大きくとるため、軒先レベルが〈南低北高〉となることが多いのも特徴と言えるだろう。こ
れを《屋根型パッシブ》と呼ぶことにしよう。
では、井山のソラキスはどうだろうか。井山はソラキスの試みを4つの段階:〈トライアル期〉
〈レベルアップ期〉〈北進期〉〈ゼロエミッション期〉に分けている。最後の〈ゼロエミッ
ション期〉では、標準型のゼロエネルギーハウスをめざした「太陽住宅標準型」を提案・実現
している。この「太陽住宅標準型」で特徴を分析してみよう。
井山の「太陽住宅標準型」は、南面大開口と吹抜を持ち、軒の出を調整して冬の日射は取り込
み(ダイレクトゲイン)夏の日射は遮り(日射遮蔽)、冬に取り込んだ太陽熱あるいは夏に取
り込む夜間の外気の冷熱をRC躯体(RCの範囲は、腰壁まで/2階床下まで/2階床まで、と
バリエーションがある)に蓄熱する方式である。この点は《箱型パッシブ》である難波の「箱
の家」や小玉の「つくばの家」と共通していると言えるだろう。
しかし、井山の「太陽住宅標準型」は、南向きの傾斜屋根も持ち、その屋根面に太陽光発電パ
ネルや太陽熱給湯パネルが載る。この点は《屋根型パッシブ》の「OMソーラーの家」と類似
している。ただし、棟位置が南側に寄っており、軒先レベルが〈南高北低〉となっている点が
異なる。これは、南側は太陽光を取り込むために高くし、北側は北風を防ぐために低くした結
果と説明されている。さらに、南面屋根の中央上部がめくれ上がり、南向きのハイサイド窓が
設けられている点も特徴である。そこに面した吹抜け上部の空間は乾燥室(物干しスペース)
とされている(南向きの傾斜屋根にすることで暗くなってしまう2階奥に日射を届けることが
できるアイデアにも思えたが、そうはなっていない)。
つまり、井山の「太陽住宅標準型」は、パッシブ手法の観点では《箱型パッシブ》と《屋根型
パッシブ》の両方の良いとこどりをした独自の形式と言えるだろう。
しかし、そうは言っても、《箱型パッシブ》と《屋根型パッシブ》と比べると、どうにも不思
議な出で立ちで、アンバランスな感じが否めない。また、北側屋根の勾配が南側屋根の勾配と
同じであるが故に、2階北側の屋根下空間の天井高が低すぎて使い勝手もよろしくない(子供
の勉強部屋とすると「子供たちはユニークな形の自分の城を喝采してくれます」と井山は述べ
ているが)。
井山のもとで研修した渡辺も、きっと同様のことを感じていたのではないだろうか。渡辺が設
計し2015年に竣工した奈良の自邸「宙地の間」において、井山のソラキスの〈南高北低〉の
形態を踏襲しながらも、北側屋根の勾配を急(南側屋根と直角)にして軒先を大地にほぼ接地
させ、北側空間の屋根下を吹抜けさせることで、天井が迫り使用しづらい場所を無くしている。
また、渡辺は、井山のソラキスについて、その技術の素晴らしさを認める一方、パッシブソー
ラーハウス内の光の「平板さ」に対する違和感を感じていたという。また、南側の暖かく明る
い空間の背後にある「影の空間」に魅力と可能性を感じていたと言う。そこで、北側の「影の
空間」に鋭く光を落とすスリット状のトップライトを南面屋根の上部中央に設け、その下部に
半円筒型の膜を張り、日時計としても機能するようにすることで、天体としての太陽をより強
く実感できるような新たな形式に発展させたのである。
さて、この「宙地の間」は、井山の「太陽住宅標準型」の違和感に対する渡辺なりの回答であ
り、さらには井山が説いていた「母なる地球 父なる太陽」という思想を神聖な空間にまで昇
華させたものであり、井山のソラキスの発展版の新たな可能性を示したものと言えるだろう。
この渡辺の展開のさせ方に共感しつつも、しかし、そもそもなぜ、井山の「太陽住宅標準型」
がこのような違和感のある「形」となったのかがよく理解できずモヤモヤしていた。しかし、
今回、庄内平野に赴き、井山の作品群、特に「太陽建築研究所」(SOLARCHIS no.33,
1993年)と「大沼酒店」(SOLARCHIS no.38, 1996年)という、標準型に取り組み始める
前の〈北進期〉の2作品を見て、その理由が少し分かった気がしたのである。
恐らく、井山にとっての「ソラキス」の理想形は「太陽建築研究所(SOLARCHIS no.33,
1993年)」だったのではないだろうか。その後に取り組んだ「太陽住宅標準型」は、この「太
陽建築研究所」を普及版とするため、あるいはゼロエミッションにするため、止む無く左右対
称の切妻形状の南側の付帯温室部分を切り落としたものだ、と考えたら納得がいったのである。
「太陽建築研究所」は、6間×6間(10.8m×10.8m)の完全な正方形平面をしており、東西方
向は2間×3スパン、南北方向は1.5間×4スパンという純粋で幾何学的な構成である。南北方向
中央2スパンの1層分(2階床まで)をプレキャストコンクリートで造り、その上に左右対称の
木造合掌屋根をヤジロベエのようにバランスさせて設置している(そのためコーナーに柱が落
ちていない)。
これはまさに白川郷などでみられる伝統的な民家の「切妻合掌造り」のような構成と言ってよ
いだろう。合掌造りの民家ではこの屋根裏空間が積極的に作業場として利用されていたが、こ
の点も踏襲されていると言える。また、日本の伝統的な民家は、背後の斜面に近づけて建てる
ことで、厳しい北風から民家を守るような工夫をしていることが多いが、この「太陽建築研究
所」は北側の1スパンは半分地面に埋まるように建てられており、同様に厳しい北風から守る建
ち方となっている。
しかし、合掌造りの民家の内部に入ったことがあれば分かるだろうが、大きな屋根に覆われた
内部空間はとても暗く、ダイレクトゲインもへったくれもない。しかし、井山はこの構成をそ
のままに、南側1スパン分の屋根をガラス屋根にし、壁も全面窓にし、温室にしてしまったの
である(現在は半透明ポリカ波板となっていたが、当初の写真を見るとガラス屋根だった)。
冬はこのガラス屋根越しの日射を、この温室に向かって開けた窓から取り込み、夏はこのガラ
ス屋根の内側にテントシェードをかけ、窓を開放して通風をするのである。2階床までがコン
クリートでつくられているので蓄熱量は十分であり、冬は暖炉の力も借りて暖かく保ち、夏は
ひんやりとした涼しい空間となるのである。また、昼光だけで日中は十分な明るさを得ること
ができるのだ。
さらに興味深いことに、南側屋根の中央スパンにおいては棟までをガラス屋根にし、吹抜け上
部のロフト空間では、ガラス屋根の下に太陽熱給湯パネルを設置し、その屋根裏ロフトスペー
スに給湯タンクを設置しながら、物干しスペースにもしている。
日本の伝統的な民家の構成を踏襲しながらも、ガラスやコンクリート、レンガやタイルなども
多用しているからか、どこか西欧的な印象の内外観となっている点も興味深いのであるが、な
により、そもそもパッシブソーラーに不向きに思える〈日本の伝統的な合掌造りの民家の形式〉
を〈パッシブソーラー型〉にしてしまおうという発想に驚かされた。まさに《シン・ミンカ型
パッシブ》とも言うべき新たなパッシブソーラーの形式であり、「太陽建築研究所」において
それが非常に純粋な形で実現されたのである。その3年後に竣工した「大沼酒店」も似た構成
で、左右対称の断面をしている。
しかし、この温室が付帯する形式は、庄内地域という寒冷地であることと相性が良く、温暖な
地域になってくると温室が必ずしも上手く機能しなくなる。あるいは、ガラス屋根というのは
やはり耐久性や維持管理の観点で難しいというのもあったのだろう。その後の「太陽住宅標準
型」では、この左右対称の断面の南側の1スパンが切り落とされ、ガラス屋根は姿を消す。そ
の結果、先のような断面となった、と考えれば合点がいくのである。
井山のソラキスは、〈日本におけるパッシブソーラーの型〉として収斂しつつあった《箱型
パッシブ》と《屋根型パッシブ》のいずれとも異なりながら、その両方の良いとこ取りをしつ
つ、日本の気候風土に合った伝統的な合掌造りの民家の形式をパッシブソーラー型に変換した
《シン・ミンカ型パッシブ》とも言うべき、”こうなるはずだったかもしれない”新しいタイプ
のパッシブソーラーだった。
井山に限らず、これまでパッシブデザインの研究・実践をしてきた先人たちの多くは、ヴァナ
キュラーな建築、あるいは伝統的な民家に埋め込まれた知恵を学び、現代に活かそうとしてき
た。かくいう私も、これまで環境シミュレーションを活用したパッシブデザインに取り組んで
きたが、近年の主なテーマは「伝統知リサーチとその現代活用」である。その意味でも井山の
ソラキスはなおさら興味深く、凝り固まりつつあったパッシブソーラーのイメージを壊し、新
たなパッシブソーラーの可能性に気づかせてくれたのである。