知らない豊かさ
2024.09.13
パラメトリック・ボイス 髙木秀太事務所 髙木秀太
世の中には知らないほうが幸せなことがある
先日、知人との他愛のない日々の会話のなかで「世の中には知らないほうが幸せなことがたく
さんある」という話で盛り上がった。きっと、僕らだけじゃなくて有史以来、世界中の老若男
女が何度も議論してきたトピックだと思う。でもね、デジタルやネットワークが発達しすぎた
現代ほど、この議論が当てはまる時代は過去にはなかったかもしれないと思うんだ。なにかを
知ってしまうと考えてしまいたくなるのがヒトの性。状態をより良く改善したり、問題であれ
ば解決しようとしてしまって、逆に精神を病む経験は読者のみなさんにもあるんじゃないか
な。動かなくても様々な情報が自然となだれ込んでくる現代。やれやれ、情報化社会のもたら
した厄介な現代病には参ってしまうね。
「井の中の蛙」も悪くない
例えば、今からはじめてコンピュータープログラムを勉強したいと思っているそこのあなた。
最初はいろいろ調べ過ぎない(=外の世界を知り過ぎない)ほうがいいかもしれない、と僕から
のアドバイス。若かりし頃の僕も独学でプログラムを勉強したけれど、狭いコミュニティの中
で「こんなことも出来るようになった自分、すごいぜ!」というビギナーズ・ハイで学習が継
続出来たような気がする。外界の情報を完全に遮断せよ、という話じゃない。限られたコミュ
ニティの中でしばらくやってみてもいいじゃない、という程度なこと。今思えば、当時の僕の
学習レベルなんて全然大したことがなかったし、成果物を世に出してしまったら嘲笑の対象に
なってしまうような代物だったと思う。でも、「井の中の蛙」というのはそれほど悪い状況で
はなくて、「井の中の世界しか知らなかった」からこそむしろ促される成長が確かにそこには
あったんだ。勘違いや無知、あるいは錯覚という状態はあながち悪いことばかりじゃないって
こと。下手に外の世界を知ってしまって「なんだ、自分のやってることって大したことないん
だ」と思ってしまっていたら、僕はやる気が無くなってしまって、その後建築の世界でプログ
ラマーにはなれなかったのではないかと思うよ。
※だけど、この「井」が現代においては極めて作りづらい環境で、、、この観点はプロゲー
マー界の生きたレジェンド・梅原大吾さん(通称:ウメハラさん)も同じようなことを述べて
いてとても興味深い。是非、こちらも参照されたし(出典:Togetter:プロゲーマーのウメハ
ラさん『格ゲーが流行った当時のゲーセンは井の中の蛙でみんなが“オレが世界一”だと思って
いた、今はそんな錯覚をする場もない』)。
僕らには「知らない権利」がある
こんなトピックも。このコラムを書いているのはちょうどパリ・オリンピック2024の開催期
間中なんだけど、ちょっとこのところのスポーツ選手への誹謗中傷は目に余るものがある。ど
うか選手たちのもとにすべてが届かないことを願うばかり。世界中すべてのヒトに情報発信の
権利があるように、すべてのヒトに情報遮断の権利(=「知らない権利」)があるんだ。それ
は現代を生きるヒトにとって、とてもとても大切な権利だと僕は思う。ヒトが心を病んでし
まった時、最善の処方のうちの一つが「情報の遮断」であることを聞いたことがある。心のリ
カバリーは「知らない」ところからスタートするらしい。
知ることを強要される可哀想なAI
「知らない権利」、あたりまえに思えて、実はこれはコンピューターには無い権利だったりす
る。文字通り、本当に「権利がない」んだ。コンピューターというのはヒトに使われる主従関
係だから、ヒトの命令、特に情報の入力に逆らえない構造になっている。現代の生成系AIで重
要なトピックはまさに「AIになにを知らせるか(=学習させるか)」。今日もどこかで誰かが
せっせと情報をAIのエンジンに食べさせているわけなんだけど、、、このAIエンジン、選り好
みをしない(できない)。つまり、ヒトと違って知ることを拒否できないというわけ。ヒトは
「知らない権利」があるから、気に入らなかったら学習を拒否することができるけど、機械は
そうというわけにはいかないらしい。もしかしたら、「知らない」ことはヒトがヒトであるた
めの最後の砦なのかもしれない。なんでも知ることを強制されるAIも、それはそれでなんだか
ちょっと可哀想な気がしてくる、、、っていうのは流石に変かな。でも、はて、将来AIもうつ
病になったりするのかな?
知の「判断」をする美しさ
僕が大学の仕事(特に授業!)が大好きなのは、やっぱりたくさんのフレッシュな学生に会え
るからなんだ。彼らは「知ってしまった偏見」が一切ない、言わば真っ白なキャンバス。これ
から「知りたいこと」と「知りたくないこと」を整理していける豊かさ・可能性に満ちあふれ
ている。学生がなにかを知ろうとする、あるいは、知らないようにする判断を自分でしたと
き、講師である僕はとても美しい光景を見た気持ちになる。瞳に覚悟が宿るっていうのかな、
その先の輝かしい未来が、確かに存在するように思える。そういうとき、学生たちの姿は本当
にキラキラと輝いているんだ。
知ることも、知らないことも君たち若者に与えられた現代の権利。きっとそれを自覚すること
こそが、君たちの誰にも負けないオリジナリティへとつながる第一歩なんだ。