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コラム

建設人材、デジタル・コンストラクション、
そしてシン・ゴジラ

2016.10.18

ArchiFuture's Eye                慶應義塾大学 池田靖史

今年のArchi Futureの開催が目前に迫っている。イベント内容の企画のお手伝いをするように
なってもう9年目になった。我々実行委員会も毎年あたらしいアイデアでさらに面白くするよ
うに一生懸命だが、BIMの本格的な普及にも後押しされて、イベントも拡大を続けていること
は本当に嬉しい限りである。驚いたことに今年も過去最高の申込数で、おそらく当日はほとん
どの会場が満員御礼になることだろう。既に受付終了しているので宣伝にはならないけれど、
今回のコラムは私の関係するセッションに関連づけてみたい。
 
まずはイベントの最初のセッションで「デジタル時代に求められる人材とスキルとは?-これ
からの建築界を生き抜く次世代のために-」というパネルディスカッションに加わるが、実は
出演者のほとんどはArchi Futureの実行委員の仲間である。これを「楽屋落ち」というとネガ
ティブな表現であるが、定期的に開かれる実行委員会は正直言って最も強力な私の情報源で、
建築と情報技術の最先端がいろいろな角度から垣間見える貴重な機会になっているという思い
がある。それぞれ立ち位置の違うメンバーの共通の関心事のひとつが、やはり人材、あるいは
職能、ビジネスモデルといった超情報化時代の建築に関わるこれからの「働き方」の問題に
なって来ている。その背景にあるのはオープン・イノベーションと呼ばれる技術の脱専門化の
動きではないだろうか。例えばBIMが実現しつつある状況のひとつも、それまで簡単にはでき
なかった風や音のような環境解析や形態と構造的挙動の関係のようなシミュレーションや、膨
大な計算量を要する最適化計算などが、ずっと身近になっていることである。これはネット
ワーク技術やセンシング技術のようなものでも似ていて、その小型化・低価格化・高速化に加
え「モジュール化」の考え方により、オープンかつ簡易に使える方向に進化している。その結
果として専門性が無くなるということまでではないのだが、近代以来の技術の専門家細分化の
一方的進行とは別なベクトルが生まれていることも確かで、技術の巨大な総合体としての建築
に関する「働き方」を変えていくことが期待されるからだと考えている。だからBIMソフト
ウェアを使いこなせなければ生き残れないなどという単純な話をここでするつもりは無い。
BIMの存在はインターネットの存在と同じように共通のメディアとして避けて通れなくなるだ
ろうが、そのデータ化された情報の使いこなし方には無限の多様性があって、プロジェクトの
どの立場にいても、それこそが創造性が発揮されるところではないだろうか。もし、そうだと
すればどのように新しい教育や能力開発をすべきなのだろうかという私自身の課題でもあると
思っている。
 
そしてBIMという情報化が建築の計画段階や技術分野の間にあった専門性という壁を融解させ
る動きのなかで、今まで以上に注目される可能性を大きく持っているのが、ものづくりの最前
線である施工現場だろうとずっと思っている。BIMはデータ流通の仕組みであり、それはワー
クフローの短縮や結合を生むだけでなく、流れの逆転によって新しい発見を産み出す。つまり
加工・輸送・仮設・組立・接合などの生産技術からのフィードバックによってデザインが進化
する機会はこれから爆発的に増えるからだ。イベントの最後のセッション「デジタル・コンス
トラクション -デジタル・デザイン、デジタル・ファブリケーションに続く施工のイノベー
ション-」のほうではこの話題について、現実の施工現場とそれ以外のセクションを繋ぐ仕事
に取り組まれている皆さんとディスカッションするつもりでいる。

ちょっと自国賛美になるが、我が国は「工業化建築生産技術」を世界最高レベルで極めている
といって間違いないと思う。その本質は規格品大量生産による高精度で安定した品質を持つ部
品を、揚重・運搬をできる動力機械によって合理的に搬送し、計画上の計算との誤差ができる
だけ少ない完成形を実現することがその性能を確保するという論理である。生産性を少しでも
向上させるため、たゆまぬ改善精神によって高めて来たのが日本の建設現場なのであって問題
がある訳ではない。ただ、近年に登場した情報技術は、大量生産規格化部品を前提としたこの
論理の外側に新たな可能性を見せている。それは建築要素の情報管理がBIMの本質だとすれば、
非規格化生産部品であってもワークフローの圧倒的改善が可能であり、それこそ、デザインと
ファブリケーション、コンストラクションが三位一体になった建築の価値の開拓に結びつくの
ではないかと思うからでもある。そんな期待の一方で建設作業現場は、安全、品質、工期、コ
スト、環境、の複雑きわまりない方程式に対し信じられないほどの慎重さで最高に洗練された
解答を出すプロ集団の努力と責任感によって支えられている。その仕事にデジタル技術が入り
込むことは本当に可能なのであろうか。
 
ここで唐突だが話題は映画シン・ゴジラに移る、ちょっと遅ればせながら、コラムをここまで
書いたところで偶然見に行く機会があって、自分の中では妙に繋がったからだ。もうあちこち
で紹介されているので十分ご存知の方が多いと思うが、この映画は怪獣映画の姿を借りた日本
の危機管理を問う政治サスペンスであり、もっと言えば現代の日本人の精神性の所在を解き明
かそうとする見事な「怪作」である。現実の世界で我々が薄気味の悪い体験をした原子力災害
を下敷きにしながら、未曾有の国家的危機に対して既存の政治システムがどれほど機能しない
かが描かれている。それだけだと一方的な見方である。現在の民主政治システムは平常時の生
活生存の権利としての資源や環境を、できるだけ不満がでないように共有と分配するために最
適化されたものであって、危機に対応するための仕組みではない。映画では少し異端なオタク
的技能者がゴジラ対策の主体となるが、その機能不全については、たいして不満を言わず、そ
の代わりに家族すらも振り返らない献身的な精神こそが日本人的な美徳であることを主張しよ
うとしているように見える。西洋社会からは仕事中毒と揶揄される自己犠牲的態度は、むしろ
自らの社会的役割に意気を感じて幸せそうでもある。自衛隊の武器が通用しないコジラ退治の
最後の作戦の実行部隊がコンクリートポンプ車やタンクローリー車で、作戦の重要な決め手が
工場の生産能力の確保やスケジュール調整で、主人公は「現場」という最前線での指揮にこだ
わり続けるところが、まるで、建設現場のプロ集団の地道な作業への誇りと気概こそが結局日
本人が有する本当の底力なのだと示しているようである。コンピューターを駆使するオタク的
技能者と現場にしかない職人的な責任感と面白さの結合、映画ではあるが、ここらあたりに超
情報化時代の働き方のヒントがあるように私には思えた。

池田 靖史 氏

東京大学大学院 工学系研究科建築学専攻 特任教授 / 建築情報学会 会長