オープン・イノベーション時代の建築家
2016.12.20
ArchiFuture's Eye 慶應義塾大学 池田靖史
ここのところ建築をめぐる職能と人材育成に関する議論をすることが多かった。日本建築学会
のシンポジウムで建築学会長の中島正愛先生や私も所属する慶應義塾大学環境情報学部の村井
純学部長らと討論の司会をさせていただいた後、その翌日に台北に移動して今度は台湾建築学
会と台湾国立交通大学の主催で友人のデイビッド・ツェン学部長やUCLA建築学科長を9年続
けた阿部仁史さん、コーネル大学建築学科長や香港大学建築学部長を歴任する女性建築家ナス
リン・セラジ先生らと議論する機会があった。意図せざることだが、そのテーマには強い共通
性があって、それは、これからの時代の建築をめぐる仕事と教育の在り方だった。私自身も学
ぶべきところが多かったので、時間的制限や英語力の問題などもあって言い尽くせなかったこ
とや感じたことをもとに、もう一度この問題を考えてみたい。
この議論の背景にあるのは、急速な情報技術の発展が現代社会の産業構造に非常に大きな変化
を引き起こしつつあり、その中で建築的空間の利用価値や生産技術、さらには関係する人材の
社会的な役割やその育成方法にいたるまで、すべてが同時に激動する世界的な転換期を向かえ
ているのだという共通認識である。ヒューマノイドという意味ではなく、自律的に自動応答す
る機械という意味では、我々は既にすっかりロボット(のようなもの)に取り囲まれた生活を
しているとも考えられ、無意識のうちに通信ネットワークに繋がれることで生活に関わるほと
んどの欲求充足がサービス産業化する事態に直面している。すなわち「物質」がどんどん意識
から後退し「情報」が取って代わることで、家庭やコミュニティ、企業や都市という根源的な
社会システムにさえ新しいモデルが生まれる状況にある。だから今、大学を出て働こうとする
ぐらいの歳の若い世代にとって、これまでどおりの建築産業や建築に関する仕事、技能の価値
などが長期的に継続する確信が持ちきれない。いっぽうUCLAで始まった大学院生向けの先進
プログラムでデジタルデザインやロボティクスなどを学んだ建築の学生は、建築業界の領域を
自然に超越し、周辺の映画産業や宇宙産業などから専門のエンジニアには無い視野の広さや発
想力がある貴重な人材として期待されているという。既に働きながらこのことに気がついてい
る人も少なくなく、世界中の建築教育で「建築家」をモデルにした社会的な職能体系に疑問が
投げかけられる様になって来たのは、何も景気や人口動態の関係でその場所の建築の仕事が減
少したからだけでは無く、もっと深いところで情報文明へ移行による社会の変革がもたらす人
間の建築活動の意義が変革していると考えられているからではないだろうか。
ここで一度、「建築家」とは何だったのかについて考えてみる余地がありそうである。芸術家
気取りの鼻持ちならない独善家として決して良くないイメージに受け取られることも多いと感
じつつ、私自身もそう名乗ってきたことへの自問自答でもある。日本においては日本建築家協
会が登録建築家という制度によって既存の建築士制度や国際的な基準との整合性に向けた努力
を続けているが、国家間の資格認証や排他的業務遂行資格の制定などに辿り着いていない曖昧
な状況である。ただ、いずれにせよ、その再構築を迫られている状況だとすれば、国際的な社
会における実態としてどこにその存在価値が認められているのかを考えてみたい。もちろん日
本にも建築士資格は存在する。安全性や耐久性、社会的な正当性などについて法律上定められ
た基準への適合性を担保するという仕事は現代社会を不安感や不平等感なく安定させるために
非常に大事な役割ではあるが、残念ながらその性質上、新しい技術的可能性や既存の社会的慣
習を革新するような挑戦に対しては若干消極的にならざるを得ない。これらの制度は一般的に
想定される建築業務以外を目的としていないし、その必要もない。だがこれまでに建築家とし
て賞賛され社会的に高く評価されている人物像をみれば、むしろ技術の社会的利用に関する開
拓者として働き、その発想力だけでなく実現力、社会的先導力などに意義が認められているこ
とも確かである。その一方で一般人でも名前を知っているような著名な建築家が、1日中コン
ピューターに向かってBIMにデータ入力をしていると思っている人もあまりいないだろう。映
画監督やサッカーの監督のように自分自身が技能者でなくても指導的な仕事をするモデルの一
つとして、(その優劣はともかく)建築に関わる様々な技術者集団を動かすことができる能力
だと解釈されているということだと思う。プロジェクトにおいて契約や資格などの社会的な制
度の限界以上に、その牽引力を高めてくれるのが、各人物が語る経済的な合理性とともに思想
としての先見性や社会的正当性などとそのコミュニケーション能力だと考えられ、その点にお
いて建築の仕事を依頼する側からの信頼を得ることにもなる。こうした前提の上で、さらに
20世紀以降の民主主義と商業主義という大衆社会のしくみの中で建築デザイン職能を進化さ
せて来たのが現代の建築家なのだと考えられる。すなわち大衆に対しての説得力を期待される
存在として、良い意味での政治的な能力としての文化や社会に関する高い見識が求められると
ともに、プレゼンテーションとマス・メディアの利用にも長けていなくてはならない。マス・
メディアを通じて社会への思想的影響力を獲得するのは何も建築家だけの専売特許ではなく、
それによってその職能が個人的な能力に由来していると考えることを「作家性」と呼んで芸術
活動などにおける属人的影響力が認識されて来た。そこではロックスターのように著名になる
につれ、語り口だけでなく人間性や風貌も含めた「像」が強調され表象的に使われていく傾向
があって、建築家も同様に扱われた場合スター建築家として社会的な認知を受け公共的な建設
行為の指導的な立場をとることもある。しかしロックスターの場合にも大衆の側で膨れあがる
虚像に苦悩することがあるように、建築家の場合には自分自身が工事をする訳ではなく、誰か
に指示をしてつくらせる設計者として、建築行為からの役割の分離が持つ性質に様々な矛盾を
はらんでいた。
設計を建築行為から基本的に分離するためには、計画に使われるモデルと現実の構造物の間で
同一性を保ち、それを確実に実際の製作者に伝達できるメディアとしての「図面」の存在が必
須である。建築史研究者マリオ・カルポは数学的な図法が確立されていくルネサンス時期のイ
タリアで表記法に基づく構想と指示による職能を明確に意識し始めたアルベルティが、その後
500年続く建築家という職能の起源となっていることを指摘することで、デジタルメディア
がその根底を覆す可能性を示唆している。すなわち、アルベルティ以前には工事の職人と設計
者の立場は分離しておらず、建築行為そのものにも職人によって工事中に意図が変質していく
ような可変性が内在し、教会建築のような大きな構造物は結果的に複数の意思の協調的な混在
を前提とするしかなかった。現在「図面」がデジタルメディアに移行するにつれ、我々は計画
と建設の間での新たな相互作用が、パラメトリックなモデルやリアルタイムなシミュレーショ
ンやクラウド的合意形成やシステムとして適応性のある可変な建築的工夫などを通じて起きつ
つあることを痛感しており、その動きを総称してBIMと呼んでいる。そしてその動きが社会と
技術の関係の巨大な潮流の一部であり、その中で個人が合意形成のための代弁者として果たす
象徴的な役割モデルの終焉を理解し始めているのである。
しかしながらこのことが、建築技術の体系とその教育システムの崩壊と捉えられるかどうかは、
考え方次第である。建築学会のシンポジウムでは既存の建築学体系とそれをセクショナリズム
的に固守する大学などの存在が、建築的能力の守備範囲を狭め、産業構造の大転換期にふさわ
しくない閉鎖性を形成してしまっているのではないかという厳しい指摘について議論となった。
それは奉職する慶應義塾大学において建築学科ではない場所にほとんど単独で飛び込み、境界
領域の中にその位置づけを標榜してきた私自身の15年以上の苦闘にも重なるものだった。確
かにArchitectureの語源はArchi(統合)tecture(技術)であり、建物の建設に限らず本来あ
らゆる技術の俯瞰的総合力こそが「建築」という方法論の社会的な役割というべきなのかもし
れない。前述したように建築をめぐる仕事は多様化しボーダーレスになっているなかで、その
コアが何であるかが改めて見直されれば、人材育成の方法も、個人の社会的な位置づけも再定
義できるのではないだろうか。
技術の複雑さと情報量が一人の人間には到底理解も利用もできなくなったことは、産業革命以
前に既に起きていて、だからこそ学問体系は技術分野の専門化による縦割り構造の深化とその
横断を個人の作家的な社会性能力に委ねる方法でそれを凌いで来た。しかしコンピューターの
記憶力と伝達力、そして、検索力や分析力などが世界中から膨大な量で産み出されるデータの
海を渡る道具になることで、その構造が必ずしも絶対的でなくなり、社会と技術の間を生きる
個人というモデルも転換するのがオープン・イノベーションということの本質のような気がす
る。イノベーションにおいては、技術的な難易度よりも、既存の業態や組織のような社会的制
度や経済的規制などの問題との整合性のほうがずっと支配的な制限要因になりつつある。社会
と技術の関係を分離せずに大局的に理解し柔軟に発想できる能力は、今やすべての人に求めら
れる共通的な能力になりつつあるが、既存の建築教育システムの中には、そうした能力の養成
に関するリソースが存在していたのではないか。技術の利用に経済的な牽引力としてのビジネ
スモデルを見出し、データの分析から新たなシステムを構築するような作業を、大衆を代表す
る象徴としてではなく、協調的で自由な個人として成し遂げる能力の開発に期待したいと思う。