善意のモンスター
2017.10.05
ArchiFuture's Eye 慶應義塾大学 池田靖史
既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、この9月から1年間の研究留学期間を頂きまし
て、人生に一度の機会と張り切った結果、1カ所に絞りきれず、4カ所の大学を渡り歩いて地
球を一周しながら私の興味のある建築・都市へのデジタル技術の応用に関する研究や実践をで
きる限り情報収集して回ろうと、日本を旅立ちました。海外旅行なら慣れているつもりでした
が、出発前になんだか今までに無い高揚感と不安感とちょっぴり感傷的な気分になったのは、
実はこの歳で人生初めての海外留学だからかもしれません。周囲の学生たちには、ことあるご
とに世界に出て行くように勧めながら、若い頃に体験しなかったことにちょっと後ろめたさを
感じるとともに、長い間の夢だったのです。もう新しいスキルを身につけるのには遅いのかも
しれませんが、人脈を広げることは得意分野にしているつもりなので、帰って来たらそれを皆
さんのお役に立てたいと願っています。
それで、このコラムでもそうした話題がこれから出てくると思うのですが、執筆中の現時点で
は最初の拠点赴任地メルボルンに到着したばかりでしで、それはまだ先のお楽しみにさせてい
ただいて、でも、ちょっとだけ関連する話題を。
本コラムで映画の話をすることがなぜか多いのですが、それは長距離の飛行機の中で寝てれば
良いのについつい面白そうなのを見てしまうからなのです。とはいえ寝てしまうことも多い中、
今回は日本公開直前の「ザ・サークル」という映画を全く予備知識なしに見てちょっと考えさ
せられました。私はトム・ハンクスにエマ・ワトソンが絡む豪華キャストには全く興味がなく、
原作も知りませんが、映画全体にある独特の不気味さに引っかかるものがありました。舞台と
なっているのはCircleという最先端IT企業で、もしかしてこれを言うのはタブーなのかもしれ
ませんが誰が見てもGoogleとAppleを足して2で割ったような印象は、決して名前だけではな
く、その企業文化を非常によく再現しています。映画の中で米国人の90%近いユーザーがア
カウントを持つという設定のこの企業がSeeChangeという常時ワイヤレスオンラインの高解
像度カメラを開発して、お互いの視覚を自由に「シェア」できる全世界サービスを推進するこ
とで、プライバシーが確保されなくなる、いわいるIT監視社会の問題を提起することが基本的
なテーマになっています。
しかしながら、Circleという企業が、プライバシーを侵害することで利益を得ようとする非情
で悪辣な存在として描かれているかというと、必ずしもそうではないところが、私が引っか
かったこの映画の不気味さだったのです。Circleに勤めている従業員たちはネットワーク技術
が可能にする新しいコミュニケーションが、便利さを産むだけでなく人間関係を楽しく有意義
なものにすることを心から信じる信奉者であり、自然やエンターテイメントに溢れる広大な
キャンパス型の本社の中で、明るく仲良くポジティブに生きているように見えます。ジョブス
をモデルにしたとしか思えない創業者も、魅力的で楽観的であり悪意や恨みや個人的欲望のよ
うなネガティブな動機が強く描かれてはいません。「秘密って嘘に通じるものだよね」とか
「情報を共有するほど多くの人類が幸せになるはずだよ」と心から思っていて、弱者を助け悪
人を捕まえる「よいこと」に技術を利用しようとしているのです。生活のすべてを「透明化」
し「説明責任」をもてば誰も悪事ができないはず、という理屈ですから見た目では、後ろめた
そうにしたり、逃げ回ったり、感情をあらわにしたりして、人間的にネガティブな様子を見せ
てしまうのはむしろプライバシーをあばかれてしまう側なのです。この描かれ方に、この監視
社会問題の最大の難関があることが窺い知れます。民衆を騙し支配する悪意の存在がどこにも
なくても、ひとりひとりの心に潜む他人への興味や正義感が、結果的に人間の持つ不完全さを
集団で標的にして「善意」で悲劇を産んでしまう様子こそが不気味さの正体です。ここには日
本で起きているネットワーク上のスキャンダル事件などにも通じるものがあります。また、私
が参加しているようなIoT技術の住生活における展開などもここに一役買ってしまうかもしれ
ません。嘘をつき、間違いを犯し、羞恥心や嫉妬心に抗えないことからエデンを追われた人類
とその社会が、正直で正確で不滅で完全で強大な情報技術を使うことで、この「善意のモンス
ター」を産むかも知れないことにも、我々は内省的になって考えるべきだと思いました。
世界一住みやすい町と評価される理想郷メルボルンで、国際的で優秀な学生たちが活発に積極
的に勉強している様子に惚れ惚れしてしまう直前に偶然見た映画としては、何かの暗示のよう
に感じてしまいました。